薔 薇 想 歌   



――嵐よ
この島を囲んで永遠に荒れ止まぬがいい
愛しい彼の人を永遠にここに閉じ込めておく為に―

鳴り止まないで、風よ、波よ
他には何もいらないから

どうか、どうかあの人を連れて行かないで――




アカネイア大陸より海を隔てて西に位置するバレンシア大陸。深い谷が大陸を北にリゲル、南にソフィアと二つの国に分け、言い伝えによるとそれは古来、ミラとドーマの兄妹神の激しい争いの後分かたれ、盟約により互いに不可侵と定め争いは終わったかに思えた。矛盾を抱えたまま。だが、永い時を経て豊か故堕落したソフィアと逞しさ故優しさを忘れたリゲルとの間に激しい戦争が起こった。両王家の生き残りであるアルムとセリカによって邪悪なるジュダ、そして邪神ドーマは滅び、解放された大地母神ミラにより、再びこの地に平和が訪れた。二度と悲しい戦いが起きぬよう、バレンシアは一つとなり復興に盛りあがっていた。新生バレンシア王国初代国王となった―元リゲル王子であるアルムは、ソフィア王家最後の生き残りであるセリカを王妃に迎え、王国騎士団をクレーべを長に創立しソフィアの民とリゲルの民に根強く残る溝を埋めようと日々励んでいた。大地母神ミラの復活により、重大な食糧危機にあったソフィアの大地は生き返り、それとともに人々にも笑顔が戻ってきた。

 そんな折、訪れる吉報。 
「ジークが帰って来たって……!?」
 驚いた顔はまだまだラム村にいたあの頃の少年のままね……、国王、そして自分の夫でもあるアルムの表情を眺めながらセリカは微笑を浮かべ頷いた。
「ええ、ティータさんから知らせがあって、さっき。こちらにもすぐ挨拶に来られるそうよ」
「そっか。皆ジークいなくなって寂しがってからな〜とくに女性陣は」
 執務室にいるというのにすっかり口調は昔に戻っている、今は傍に誰も――宰相となって口煩くなってしまったマイセンなどもおらずセリカと二人っきりだからだろうか、アルムは姿勢を楽にしながら面白そうに顔を緩ませた。きっと、周りの反応を想像して楽しんでいるのだろう。
「ふふ、ジークさんの人気はリゲルでも凄かったそうだけど、国が一つになってからソフィアの人達も加わって倍増よ。ティータさんも大変よね」
「……ィータさんの様子は?」
「ん…。ジークさんがおられない間は海ばかり見ていて消えちゃいそうだって…、デューテが言ってたわ……でももう大丈夫よ!」
「……うん、そうだね」
 ――彼は帰って来ないような気がした。
 それはここバレンシアでの辛い戦いを終えた後、アルムが国王となるのも見届けずこの地を出発した時に誰もが少なからず抱いた思いだろう。
 ジーク―元リゲル国騎士団長であり、リゲル国王…実はアルムの父であるルドルフ国王の全幅の信頼を受けていた青年である。彼は海を渡りこの地へやってきた時は瀕死の重傷であったらしい。それを城付きのシスターであったティータが見つけ、介抱した。死の淵に両足突っ込んでいた状態であったが、ティータの必死の介護のおかげで傷は癒え意識を取り戻した、だがその時には彼は全ての記憶を失っていたのだ――自分の名前すらも。不憫に思った国王は彼に「ジーク」という名を与え、彼はその恩に報いる為に国王陛下に尽くした。記憶は失われても身体に染みついたものというのは失われないのだろう、彼は周囲が驚愕するほどの騎士として、軍師として冠絶した才を持っており、その才に惚れた国王は彼を息子同然に扱い騎士団をも任せた。この地では金髪は憧憬の対象であり、伝説の女騎士と謳われ、麗しい美貌と穏やかな性格を持つマチルダとともに民から絶大な人気を誇っていた。碧眼、端正な顔立ち、そして落ち着いた雰囲気を持ち、更に記憶喪失という辛い境遇がミーハーな性質の宮廷女官などには堪らないらしく、ティータという恋人がいるにも関わらず狙っている人間は多いらしい。
 グレイなどは「あんな顔詐欺だよ、出来すぎ、男は顔じゃない、心さ」――なぁ、クレア、と愚痴のような呟きを繰り返しその度にクレアに見事な意趣返しを受けている。
 だが彼はあまり興味がないのか女官達のアプローチにも一切靡かず、ティータ一人を大事にしていた。ティータは新緑を思わせる柔らかな髪を一部後頭部で括り肩までの長さのそれを垂らしている。瞳はダークブラウン、生来のシスターなのか、性格は穏やかで控えめな女性だった。ジークを介抱している内に、最初は彼を不憫と思っていた筈がいつのまにかそれが恋に変わっていた―もしかしたら一目惚れだったのかもしれないが…。もう彼しか目に入らない。周囲から見ればティータがジークに惚れていることは一目瞭然であった。彼女には肉親はいず城で育った、ルドルフ皇帝もそんなティータのことは気に入っており、二人を祝福していた。恋人となったにも関わらず、相変わらずティータはジークを「様」付けで呼ぶ、それをジークは苦笑して呼び捨てにするよう言うのだが、どうやら癖になってしまったらしい。傍から見ても円満な様子の二人は、誰にも間に入れないと思わせるほどであった。
 だが、ジークは記憶を取り戻したのだろうか。戦いを終え、海を越え東の大陸に向かった。最初それを本人から聞いたときはアルムは驚いた。これからのバレンシアには彼の力が必要だった、それもあるが、そのことよりもティータの消沈ぶりが見ていてこちらも辛くなるほどだったからだ。だが、彼は「帰ってくる」とそのとき言った、その言葉を信じて今までアルムは待っていたのだが…。ジークがいなくなってからというもののティータはよく部屋の窓から海を―もっと遠くを眺めていることが多くなり、周囲の女性達は心配で仕方がなかった。時々はっとしたようにこちらの心配に慌てて元気を装うのが、それが更に心配性なセリカ達を煽ってしまう。戦いを経てティータと仲良くなったデューテやセリカ、世話好きで活発なメイなどティータを励まそうと度々ティータのもとへ訪れ、お茶や散歩に連れ出していた。
 だが、ジークが帰って来たならばもう心配することはない。そう思って誰もが安堵していたのだった。



 * * * *




「ティータ、風邪をひくぞ」
 元リゲルの海岸沿い、ティータはここで瀕死のジークを見つけた。この浜辺にぼろぼろの黒衣を纏って打ち上げられていたのだ。ティータはよくここに一人で来ていた。ジークがいなくなってからは毎日のように足を運んだ。とくに何をするでもなかったが腰を下ろして静かに波打つ海を眺めていた。
 思い馳せるのは愛しい人との最初の出逢い。
 ジークは海を眺め続けるティータに近付いて肩に持って来た上着を被せてやる。日も暮れ始め、潮風も強くなってきた。いくら今気候は温暖とはいえ、ティータは膝下丈のワンピースに薄いカーディガンを羽織っただけなのだ。このままでは風邪をひいてしまうだろう。
「ジーク様……ありがとうございます」
 ジークの自分を呼ぶ声にも気付かなかったことにバツが悪いのか少し気恥ずかしそうに礼を述べた。
「何か考え事か?」
「……」
 ジークはティータの様子を心配していた。ここに帰って来た時には安堵と喜びの笑顔を浮べ自分を出迎えてくれたが、最近のティータは以前の彼女とは少し違う。元々控えめな性格で元気溌剌、活発という雰囲気ではないが、それでもこのような憂いの帯びた表情などあまり見たことがなかった。周囲の人間から言われずとも自分の不在時彼女がどれだけ憔悴していたかはわかっていた。ジークは命を救い自分を愛してくれたこの少女にとても感謝していた。記憶を失っている間の、常に付き纏う「自分は何者なのか」という不安も恐れもこの少女と父親同然の存在であった今は亡きルドルフ国王のおかげで自分は大丈夫でいられたのだ。
「最近のティータは何か変だな、何か思い悩む事があるなら話して欲しい」
「……」
 ティータは少し辛そうに表情を歪めるだけで無言のままであった。ジークは何故ティータがそんな表情をするのかわからなかった。自分には言えない悩みなのか。
「ジーク様の方こそ……思い悩むことがおありじゃありませんか……?」
「……」
 ずっと海辺を眺めていたティータはゆっくりとジークの方に顔を向けた。日は沈みかけ、さわさわと吹く風がティータとジークの髪を揺らす。
「ジーク様……いつも何処か遠くを見詰めていました……お一人の時も私と一緒にいる時すら……。特に海を眺めるときの貴方の瞳は強く……私はとても直視できなかった……故郷を本当の自分を切望しているのが痛いほど伝わってきたから……。私はずっと怖かった……寂しかった……」
 ぽつりぽつりと独り言のように話すティータを見てジークも悲しそうに表情を歪めた。
「……ティータ……今夜、話そうと思っていたのだが……」
 その瞬間ティータの鼓動が一際大きく打つ。いつかは来るとはわかっていたとは言え、恐ろしくてたまらなかった。
「……はい……」
 やっと搾り出した声。酷く掠れていたように思う。やっと、やっと待ち焦がれていた人が帰ってきたというのに。目の前にいるのに。彼がいなくなってから何度も望んだ彼の姿が、声が傍にあるというのに。今まで常に漠然とあった不安が急速に形を成しティータの心を支配していた。帰って来た彼を初めて見た時に、既に悟っていたようにも思う……彼は以前の彼とは明らかに違っていた。戦いを終え海を越える前に、「帰ってくる」と約束してもらったにも関わらず恐怖は拭われなかったあの時と同じ、いやそれよりもずっと強くなった。たぶん彼は何もかも思い出したのだろう。名前も、祖国も、帰るべき本当の居場所も。
 ティータは俯いた。とてもじゃないが今彼の瞳を直視する気力などない。ジークはそんなティータを見て辛そうな表情を浮かべる。暫しの重たい沈黙。
「ティータ……私はもうここにはいられない」
 ぽつりと、だがはっきりと落とされた呟きはティータの心をも突き落とした。
「どうして……っ!やっぱり……記憶が戻ったから……本当の居場所を思い出したから? ジーク様……いつもどこか遠くを見ていた……記憶を失っていても誰かを求めてた……探してた……私、怖かったずっと。いつも祈ってました、ジーク様の記憶が戻りませんように……って。海にいつもお願いしてました、ジーク様を連れて行かないでって。代わりでもいいの、その「誰か」の代わりでいいから、傍にいて……お願いジーク様……」
「馬鹿を言うな、ティータ。ティータはティータだ。他の誰もティータの代わりになどなれない。ティータが他の代わりになる必要もない。私はティータに感謝しているんだ……命を救ってくれて、記憶がない私を癒してくれて、とても感謝している……」
「……感謝なんて、そんなものが欲しいんじゃないの。……ううん、感謝でもいい、傍にいてくれるなら……」
「ティータ、すまない……。これ以上私はティータを苦しめたくないんだ」
「ジーク様、行かないで……! 「誰か」のところに行かないで……」
「落ち着けティータ……そうではない、私は誰のもとへも帰らない。私はただ祖国を……見守っていきたいのだ……一度は私とともに滅び、忘れてしまった祖国……思い出してしまった以上、放ってはおけない……」
 ジーク……カミユは荒れ果ててしまった祖国グル二アの復興に協力したかった。一度でも忘れてしまったことがカミユにとっては身を切られる程の辛さだったのだ。それほどに彼はグルニアに忠誠を誓っていた。
 涙が溢れ幾筋も頬に跡をつけつつもそれを拭うこともせずティータはカミユの袖を離さなかった。カミユは宥めるように肩に手を置く。もう自分にはこの涙を拭ってやる資格などないのだから。
「祖国……?」
 呆然とした表情でティータがカミユの瞳を今日初めて見た。
「ああ、私は海を越えた東の大陸アカネイア、グルニアという国の将軍だった」
「グルニア……」
「もう、滅んでしまったけどね……」
 自嘲の笑みを浮かべ、自分の袖を掴むティータを優しく見下ろす。ティータはやっと落ち着きを取り戻したようだ。カミユの穏やかな瞳に先ほどまでの己の態度を振り返り恥ずかしさの余り真っ赤に顔を染めた。そんなティータを見て柔らかい微笑を浮かべる。いつものこの穏やかな微笑はティータの心に不思議な安寧をもたらしてくれたのだった。
「ご、ごめんなさい、ジーク様……」
 ぱっと皺になるほど掴んでしまった袖を慌てて解く。
「いや、詫びねばならないのは私の方だ……」
「……」
 また沈黙が訪れる。だが先ほどより重さは感じなかった。
「……ジーク様」
「……うん?」
「またすぐに旅立たれてしまうのですか?」
「アルム王に挨拶をしてから発つつもりだが……」
「……」

「一つだけ……一つだけ最後の我が侭聞いてくれますか?」
「ああ……」
「1ヶ月だけ……時間を下さいませんか?急ぐ旅ではないのでしょう。一月だけ、待って……思い出を下さい……。その間に私も……、けじめを、つけますから……」
 ティータは愛しい人の意志の強さを知っていた。瞳を見た瞬間、もう止めることはできない、と一瞬で悟った。その意志の強さに惹かれたとはいえ、今は泣きたくなるぐらい恨めしかった。だからせめて、これくらいの我が侭は許されるだろう。思い出、と口にするだけで引き裂かれるような思いだったが、ティータは今ここで彼を失ってしまうよりは、と思った。少しでも長く彼を引き止めたかった。ティータの必死な思いが声にも表れていたのだろう。カミユは、静かに「わかった……」と承諾した。




 せめて一月だけでも……一月の間に何とか、彼を思い留まらせられないだろうか……そんな希望を胸に抱きつつも、ティータは祈った。海に願った。海の向こうへ連れて行かないで……嵐を呼び彼を永遠にここに留まらせて下さい、と。




 一月だけなら……命を救ってくれた森の癒しのような彼女に出来る最後のことならば。
それが新たな運命の糸を紡ぎ、煩雑に絡ませるとも知らずに――