薔 薇 想 歌   







 それから、数日は何事も無く過ぎていった。カミユ達は港に向かって、村を辿りながら、進む。奇妙な静寂と、不穏な気配が追ってくるのを感じながらも。







 薄暗い森の中。
 ニーナは走っていた。
 勝手に抜け出して、今頃彼らは慌てているだろう。そのことに胸が痛んだが、それでも自分を止めることは出来なかった。


 先程、ジョルジュとカミユの会話を偶然、盗み聞きしてしまったのだ。深夜、自分を狙っているという暗殺者が襲撃してきた、と。そして彼らが返り討ちしたという。
 だが、暗殺者はかろうじて逃げ出してしまったらしい。
 瀕死状態で、とてもじゃないが、精神力だけで保っているような状態だったと。あのままではじきに出血多量で死んでしまうだろうと誰が見ても明らかで。あれではたとえ最高級の回復の杖でもっても、傷を塞ぐだけでそれでは枯れゆく生命を繋ぎとめることができないだろう。と。
 だが、不安材料は残すべきではない、と言って追走してとどめを、と言った彼の言葉にびくり、として。
 気付いたら、二ーナは彼らの目を盗んで一人飛び出していた。
 夜の森を、ただ必死に。


 宿屋を飛び出て、すぐさまぎくり、と背筋に悪寒が走った。まるで大雨が降ったあとのように、大量の血が地面に溜まっていた。
 暗闇の中、黒々と、深い闇のようで、ニーナはその闇の深さにかつてメディウスに感じたのと同じ恐怖を、記憶を失っていても身体が覚えていたのか、ぶるりと全身を震わして慄いた。
 血の跡は点々と途切れることなく奥へと続いており、ニーナはそれを頼りに森の中、走った。
 辿り着いた先は廃屋。そっと、扉に触れるとぬるりとした感触が伝った。瞬時にニーナは手を引っ込め、掌を見下ろす。やはり、血だった。

「……おや……これは、これは……思いも寄らぬ、……」
 瀕死な状態であるにも関わらず強気な声に混じって、ひゅうひゅうと喉から空気の漏れる音が聞こえた。
 ニーナがそろりと、今にも崩れ落ちそうな建物の中に足を踏み入れる。薄暗くてわからなかったが、声の方向から視線を辿らせると、女は広い一室の中央右寄り、二階へと続く階段に凭れ掛かりつつ、ニーナのいる入り口の方を凝視していた。胸元の傷口を手で圧迫しながらも流れ出る血は止まらない。ただ暗闇の中からじっとこちらの様子を窺っていた。足元の綻びた絨毯に血は流れ染み、その量の多さに吸収できなくなったのか上に大きな血溜まりを作っている。
 凄惨な光景だ、と思った。薄暗い闇の中でも、これだけ圧倒させられる。
 鼻に、感覚器全てにこびりつく血臭は明らかに、迫り来る死を感じさせるものだった。

「あの……怪我……」
「そんなことを言いに、来たんじゃないだろう!?」
 あまりの光景にそんな言葉しか出なかったニーナに女は、苛立ちを隠さず吐き出した。そのあと、ごぼ、と苦悶の混じった咳を吐く。ニーナは苦しそうに、立ち止まって喉を震わした。
「私は一体何をしてしまったのでしょうか……やはり何か……以前に酷い罪を犯したのでしょうか……。それに耐えられなくて私は記憶を……」
 そう、それを確かめたくて。だがあの人たちは優しくて自分を傷つけないようにしているように見えるから。これほどまでに執拗に自分を狙う目の前の存在なら、きっと事実を教えてくれるかと思ったのだ。
「……いい、心構えだ……ね、そう……あんたが、記憶を無くしたのは……ただの、逃避……だろ、う……」
「……逃避……?」
「そう、さ……、現実の……辛いことに目を瞑って逃げ出し……た……。周囲……を、不幸……に……、愛しい男、を追ってきてみれば既に……男、に……は別の女……が……」
――愛しい男。それは、もしかしたら。女の言葉にふと、カミユの顔が浮かんだ。
 ああ、やはり――
「……そうでしたか……」
 悟ったような、予期していた表情と全く正反対なニーナに、暗殺者は一瞬苦痛も忘れて彼女に見入っていた。そして、ふわり、と甘い香りを漂わせ、ニーナは彼女の近くに腰を下ろした。己の服の裾を破って暗殺者の手当てをしようとするニーナに目を見開いてうめく。
「……私、は……お前を、殺そ……うと……ぐ……」
「でも、私は……あなたがそれほど悪い人には……」
「やめろ……!」
「あ……! 動いては……!」
 両肘で支えるようにしてよろりと、身体を動かした女は、ニーナの制止の言葉も耳に入らず、近くにあった灯架を倒した。がたん、と音を立て、中から灯火の油がとろとろと床に流れ出る。
 ニーナは怪訝そうにそれをただ眺め、そして視線を女の顔に戻した。
 女は、生気の失った無表情で、ただ黙って火種をその油の中に投げ放ち、途端に、ぼうっと紅い炎が上がった。
 先程までの暗闇が嘘のように、辺りを隅々まで詳細に照らし出した。
 一面の、赤。
 血と炎が混じって、世界は赤一色に染まった。



「……逃げない……の、か……?」
 気だるそうに階段に凭れつつ、呆然と炎を見つめているニーナに最後の力を振り絞って、暗殺者は問うた。ニーナはそれすらも耳に入らないのか、建物全てに広がりつつある炎に目を奪われていた。身体を包む熱気に頬は上気し、額には汗が流れ出していたが、表情は一片の熱さも感じていないかのように無表情だった。琥珀の瞳は炎を映してはいたが、正確には映してなかった。それをぼんやりと虚ろな意識の中眺めて、睡魔に誘われるまま女はゆっくりと目を瞑った。
 いつでもどんな時にも、最期の瞬間にも自分の視線の先にはあの方だけが――
「今……お、そばに……」
 最後の呟きはすぐに炎の中に溶けた。