薔 薇 想 歌   





「ニーナ様、こっちこっち!」
「なぁに、リンダ? そんなに慌てて……まあ」
 満面の笑顔を惜しみなく浮かべ、ニーナの手を引っ張りながら、どこかに連れて行く。そんなリンダに何事かと問うニーナの表情は彼女につられるかのように明るかった。
 リンダはニーナを食堂の前まで連れて行き、その前で手を放した。促されるままにニーナは食堂の中を覗くと、テーブルの上に、数種の果物が詰まったタルトケーキが置かれていた。
「朝早くからいないと思ったらこれを作っていたのね?」
「はい、早く目が覚めちゃって……宿の人がこのへんは木苺がたくさん採れるんだって言ってたから、一緒に採ってきたの」
「おいしそうですね。ね、召し上がってもいいかしら?」
「勿論、ニーナ様の為に作ったんだもの」
「ありがとう」
「お茶もどうですか」
 奥からレナが茶を淹れて運んできた。
「レナさん! レナさんも召し上がってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 それぞれ席について、切り分けられたケーキを口に運ぶ。
「まあ、おいしい……」
「本当、甘くてふんわりしてて。リンダったらお料理上手なのね」
 少し意外そうなレナに、リンダは頬をかきながら、
「うん、これ、ニーナ様に教わったの」
 と少し照れながら口にした。
「え、私が……?」
「うん……パレスにいたときにね、あ、パレスってね、ニーナ様が住んでいらっしゃるところでね。ニーナ様、お菓子つくりが得意なのよ。時々女官の目を盗んで作っていたっておっしゃっていたわ」
 そう言って、リンダは片目を瞑って悪戯っぽく笑った。
「そうなの……?」
 それにつられてレナもくすりと笑いを漏らし、ニーナも気恥ずかしそうに口元を綻ばせた。

 リンダの「思い出の品作戦」は、功を奏していたのだろう。ニーナの明るい表情に、リンダは安心して次々とパレスでのニーナとの暮らしを語った。最初は少しでも記憶が戻るきっかけになれば、と思っていたのだが、レナとニーナの花が綻んだような笑顔に、そんなことはどうでもよくなっていた。





 * * * * *



 ぽつり、ぽつり、と恵みの雨が降り始めた。
 次第に強くなる雨音と混じって不穏な気配が動く。宿の一室にいたカミユはいち早くそれを察知し、部屋から外の様子を窺う。徐々に近づいてくる気配、だがカミユははあ、と溜息を吐き、ベッドに腰を下ろした。
「ジョルジュ……驚かすな」
「いや、悪い」
 肩を竦め、姿を表したのはジョルジュだった。
「少し近辺を探っていた……いい情報と悪い情報、どちらを先に聞きたい?」
「……悪い情報、とはまさか」
「そう、生きている」
「……」
 やはり、と心中で舌打ちしながらも、納得した。ニーナが生きていたのだ。その女が生きていたとしても何ら不思議は無い。
「ニーナ様より上流域にたどり着いたようだ、瀕死状態だったようだが近くの村で介護を受けていた……だが杖の治療ではない」
 そう、シスターの扱う回復の杖とは一般では高価なものとされている。このような辺鄙な、いまだ日々生きるのに精一杯な地域で回復の杖、そしてそれを扱える者はほぼいないといってもいいだろう。
「俺がそこへ着いたときにはそいつはもういなかった。相当の怪我だったらしいが最低限の治療を受けて出て行ったらしい。もしかしたら俺に気付いたかもしれない」
「今までニーナに手を出さなかったのは、出さずにいたのではなく出せなかったからか」
「一番考えられるのはそれだが……だが、そうと決まったわけではない。
 何にせよ警戒が必要だ。いつ動き出すのかわからない。否、もう動いているのかもしれない」
「……危険は出来るだけ早急に排除した方がいい」
「……たとえニーナ様を囮にすることになっても、か」
「……ああ」
「……そうだな……」
 危険はなるべく、早く排除しておきたい。今弱っているというなら尚更。


「ところで、いい情報とはなんだ」
「ああ」
 その言葉に思い出したかのように、ふと愉快そうな色の浮かべ、窓際に凭れカミユを見下ろす。
「……ニーナ様の笑顔が見られたことだ」
「!」
「リンダに感謝だな」
「そうだな……私もそう思う」
 昼間の、ニーナの明るい表情を思い出しながらカミユも頷いた。
「記憶が失われて、何もかも失ってしまったと愕然としたが、やはりニーナ様はニーナ様だった。悲しいことだが、ニーナ様の健やかな笑顔は本当に久しぶりだった」
「……」
「たとえ、記憶がなくとも俺達の忠誠は変わらない、アカネイアに戻っても彼女を護る。これまでと同じように。それに、パレスに戻れば徐々にでも思い出して下さるかもしれない」
 まさに宣戦布告だった。今の彼女にとって最善で最上の方法だと、そう彼はカミユに突きつけた。そして「さあ、どうする?」と言わんばかりのジョルジュの態度にカミユは正面から受け止め、
「彼女は私が護ると決めた……これはただの、私の我が儘なのだが」
 ジョルジュを見据えながら、カミユははっきりと自分の意思を告げた。
「……もう後悔はしたくない。彼女を、私に託して欲しい」
 これだけは譲れないのだ、と。そう瞳に強い意思を宿らせて。


「……残念だ」
 大きな溜息を吐きつつも、その言葉と態度とは裏腹に、満足そうな声色だった。
「あんたを殴れる、せっかくの機会だったんだがな」
 そう言って、拳を緩く握る仕草を見せつつ肩を竦めてみせた
 先程の言葉は本心からであり、それを自分は一番望んでいた――今までのように、彼女を護る、と。目の前の男が、真剣に、本心で返してくれなければ、……例えば今でも彼女の為ならばとここで引き下がってしまうようならば、容赦なく拳の一発や二発を入れていただろう。
 半分望んでいて、半分それを望んでいなかった答えをカミユの口から聞いたジョルジュは瞠目して、いつもの飄々と掴み所の無い笑顔を浮かべた。



 * * * * *



「……私は反対よ」
 部屋でひとり仕度を整えているジョルジュの背中に向けられた声に振り向かずとも、誰かはわかった。ジョルジュは、彼女の言葉に一瞬何のことかわからず訊き返そうかと思ったが、すぐに思い当たり、心中で溜息を吐く。
「リンダ……聞いていたのか。ニーナ様は?」
「レナさんたちと一緒にいるわ。それより、ニーナさまが暗殺者に狙われているなんて……パレスにいていただいたほうが……」
「いや、パレスも安全とは言い難い」
「え……?」
 ジョルジュの言葉にリンダは耳を疑った。
 何を言っているのだろう。ニーナ様にとって一番安全な場所ではないか、と反論しようと口を開いたが、続くジョルジュの声に遮られてしまった。

「あの頃、反ハーディン派の貴族達が……ハーディンを追い詰めていっていた……」
 いきなり過去を振り返り語り出すジョルジュにますます意味がわからなくなったリンダは明らかに怪訝な視線を投げるが、それすら気にとめる様子も無い。
「王位に就いて……アカネイアの腐った内政の実情に直面したハーディンは貴族の賄賂横行を許すことなく徹底的に取り締まった。もともとアカネイア至上でそれ以外に排他的な、ハーディンが王位に就くのを嫌がっていた一派とこれを機に対立を深めることとなったらしい。生粋の軍人であるハーディンが、陰湿な貴族の執拗な嫌がらせに対抗する手段など当時のアカネイアではなかっただろう」
 あとから聞いた話だが、元最高司令官伯爵令嬢であるミディアには及ばないにしても、アカネイアにおいて有力貴族出身である自分がニーナの夫、つまりアカネイア国王候補として挙げられていたというのは本当だろうか。それを聞いてジョルジュは背筋が凍った。
「オレルアンの誇る「草原の狼」……通常ならばニーナ様のお心が自分に向くまで……いや向かなくとも彼女に牙を向けることなどしなかった筈なんだ。それなのに、あの頃の俺はそれに気付かなかった。ニーナ様の苦しみにも。ドルーアだけが、地竜族が忌まわしいのではない。堕落した貴族こそが、国の敵だ……」
 以前同じような話題を、カミユとしたことがあった。そして彼も神妙な面持ちで憂いの言葉を紡いだ、「……グルニアも他も似たようなものだ」と。
 黒騎士団を軍事の要に、大陸で1,2の強国とされるグルニア――まさに誇り高い騎士の住まう国、だった。
 だが、当世の国王は病弱で、それに伴うように気も弱りがちになることが多く、ドルーアに野心を植え付けられた貴族たちに良いように言いくるめられ、結果ドルーアの思い通りになってしまった――連綿と続いていたアカネイアの傲慢な態度に辟易していたこともそれに大いに貢献しただろう。
 国王には絶対の忠誠――だが、ドルーアへの反発でニーナを庇い逃がしたという。
 カミユの複雑な立場に、ジョルジュも同情せずにはいられない。目の前の男が自分の仕えるアカネイアを滅ぼした存在、だが同じ騎士として彼の苦悩は手にとるようにわかった。自分がグルニアの騎士ならばどうしていただろうか。祖国を、主君を裏切ることなどまず考えられない。騎士とはそういうものだ。融通が利かない、と苦笑される存在とわかってはいても。

「いまだ、ニーナさまを擁してアカネイアの復権を望む輩はいる。大陸の民の総意の大半は英雄マルスにありながらも、まだ。それだけは防がねばならない、と。そうおっしゃってニーナさまは日陰の存在に自分を置いた」
「そんな……知らなかった……でも私……」
 忌むべき戦争が終わった。全ての人が無事だったわけじゃない。辛い別れもあった。でもそれでも邪悪な竜は滅びて、戦争は終わって。そして、皆これからの道をそれぞれ歩んでいって。
 ふっと、人知れず目の前から消えてしまった人もいる。以前のように容易には会えなくなってしまった人も多い、けれど風の便りで吉報が届くとそれだけで嬉しくて。何より自分の大切な人たちは近くにいて、笑っていてくれるから。それだけで皆平和で、幸せで。物語のように「そして皆幸せに暮らしました。めでたしめでたし」と、そんな風に悪いものは全て終わった、と思ってしまった。だから、裏ではまだそんな醜いものが蠢いていたのかと思うと、どうしようもない悲しさが巡る。アカネイアという国はもっと、煌びやかで華やかで、凛然と輝くこの大陸の支柱だと思っていたのに。
 それ以上に……。リンダはしゅん、と項垂れた。そんなリンダの様子にジョルジュはふっと微笑を口元に浮かべて、
「いつでもニーナ様とは会える」
「ジョルジュ……?」
「今までと変わらない、少しぐらい遠くても、会おうとすれば会えるだろう。好きなときに会いに行けばいい」

「そうね……そうよね、うん……ありがとう、ジョルジュ」
 ニーナが遠く離れることを寂しく思っていたリンダの思いを汲み取って、優しく諭した。もやもやとしたものが晴れて、自分を励ましてくれたらしいジョルジュにリンダは嬉しそうに笑った。