薔 薇 想 歌   



「あらまあ、ニーナ様ではございませんか!」
「あんたは、カミユ……?」
 赤い髪のシスター、レナが胸の前で手を合わせて嬉しそうに叫び、ジュリアンもニーナと、その傍にいる男の存在に驚く。
 まだ荒い呼吸をしながら、リンダは目の前のニーナをじっと見つめていた。確かめるように。
「ニーナ様……」
「はい……?」
 まだそう呼ばれることには慣れていなかったが、ニーナは茶色の髪の少女をきょとん、と見返して小首を傾げる。
「ニーナさま……っ!」
 間違いない、ニーナさまだ……!
「ニーナさま、ご無事だったのね、ああよかった……!」
 先程までの疲労も何処に消えたのか、後ろで高く括られた髪を揺らして、ニーナに勢い良く抱きついた。頬に触れる髪がくすぐったい。喜びを全身で表す見知らぬ少女に、ニーナはただおろおろと戸惑うばかりであった。
「あ、あの……」
「ニーナ様、ご無事で何よりです」
「久しぶり、ニーナ様」
 レナとジュリアンもニーナの無事を確認できたことを喜び、声をかけてきた。
「知らせを聞いたときは本当にショックで……! いてもたってもいられずこうしてやって来てしまいましたけど……もうこうやってお会いすることが出来ないのかと悪い方にばかり考えてしまって。でもお会いすることが出来て、本当によかった……」
「……あの、あなたは……」
「……ニーナさま? どうしたの、そんな驚いた顔をして……そう言えば、顔色が優れないわ」
 そう言ってからはた、と、顔色が優れないのは自分のせいだと気付き、申し訳なさそうに少し身を離してニーナの表情を覗き込むように窺う。
「いいえ、そうでは、なくて……」
 深い赤の双眸が心配そうに覗き込んでいる。ひたすら自分を気遣っている色に戸惑い、どう言っていいのかわからなくて口篭もってしまった。視線を彷徨わせると、カミユがその様子を見かねてそっと二人の間に入ってきて。
「……彼女は、今記憶を失っている。自分の名前すら覚えていなかった」
「……なに、を……?」
 割り込むかのように降ってきた言葉に、リンダは眉を顰める。一瞬、何を言っているのか理解できなかったのか、カミユに訝しげな視線を投げた。だがすぐに彼の言葉を反芻し、ひやりとした悪寒が走る。恐る恐る視線を戻すと、長い睫毛の隙間から琥珀の双眸が沈痛そうに揺れていた。見慣れた金色の前髪の奥では眉が辛そうに歪められていて。
 リンダは顔が強張った。
「まぁ……」
「記憶、喪失……?」
 口元を手で抑えたレナ、ジュリアンも突拍子の無い言葉にただ繰り返し、カミユはそれに黙って頷いた。
「……私、のこと覚えていないの? 私の名前も……?」
 少女の震える声に、ニーナはきゅっと唇を噛み締め、視線を逸らして俯いた。
 とても、見ていられない。
 快活そうな、満面の笑顔が似合う少女の、震える声だけでもこんなに痛々しいのに。とても彼女の顔を見ることなど出来なかった。
 リンダはニーナのその様子を見て、ゆっくりと身を離した。遠のいた温もりにニーナはふと寂しさを感じ、俯いてしまった少女を眺める。
「……ニーナ様を、返して!」
 吐き捨てるかのようにカミユに向かってそう叫んでから、リンダはぱたぱたと走り去ってしまった。
「あ……!」
 慌ててニーナもリンダのあとを追いかけていく。
「……」
「まぁ、嵐の予感ですね……」
 沈黙して佇むカミユと走り去ってしまったリンダ達を交互に見遣って、ジュリアンはどうしよう、と困惑していた。レナも頬に手をあてて、呆然とした呟きを漏らした。



「あの、名前、教えて下さいませんか……?」
 リンダに追いついたニーナは肩で息をしながら、木の前で棒立ちになっている彼女に話し掛ける。
「……リンダ……」
「リンダさん……」
「さん、はいらない……」
 相変わらず、リンダはどこか拗ねた様子でニーナに背を向けていた。それを見て一層強く、早く記憶を取り戻したい、と感じた。こんなに自分を慕ってくれる少女がいるのに、とニーナは罪悪感で、しゅんと項垂れてしまう。
「……リンダ、その……ごめんなさいね……」
「! ううん! 二ーナ様は全然! 謝る必要なんかないんです!」
 背中に届いたニーナの力無い声色にはっとして、リンダは慌てて振り返った。見るとニーナが心底申し訳無さそうに自分に頭を下げていた。驚愕すると同時に、ニーナの気持ちを考えていなかったことに気が付いて、かっと恥ずかしさで顔が熱くなった。
 必死に言い募るリンダにニーナは「やっと、振り向いてくれた……」と安堵の微笑を浮かべ、
「さあ、皆のところに戻りましょう……? リンダ」
 そう言って、手を差し出す。
「はい、ニーナさま」
 リンダはその笑顔にやっとほっとした心地を取り戻し、その手を握った。



 * * * * *



 今夜は近くの村の宿で休むことにした。
 あまり人も寄り付かないのか宿は空いており、女性と男性それぞれ一部屋ずつ借りることとなった。
「お加減はいかかですか? お茶をお持ちしましたけれど」
 そう言ってニーナのいる寝室に入ってきたのはレナ。宿屋の主人に貰ったのか、湯気を漂わせた茶器とそれを載せた盆を運んで入ってきた。
「レナさん……大丈夫です、心配して下さってありがとう」
 レナから暖かいお茶を受け取って、ニーナは淡く微笑んだ。
「いいえ、私はニーナ様がご無事で、それだけで嬉しいです。リンダも安心したのね、すっかり熟睡してしまっているわ……」
 傍のベッドですっかり寝入ってしまっているリンダを眺めてくすり、と微笑む。
「レナさん達は、私を探しに来て下さったのですか……?」
「はい、リンダ一人では心配ですし……本当はミディアさんも来たかったでしょうに……」
「ミディア……さ、ん……」
 ちくり、と後頭部に痛みが走り、少し眉が歪む。
「あ、大丈夫ですか、ニーナ様……ごめんなさい、私ったら……」
「いいえ、ミディアさんも……私は……、……いえ、それよりどうして、私はここに……バレンシアの人間ではないのに、ここにいるのでしょう」
 もっともな疑問だろう。だけれど、彼女がここバレンシアにいる理由――その理由はマルスを通してレナにも知らされてはいたが、軽く口にできることではなかった。
「ニーナ様、どうか焦らないで……。記憶を失うのはお辛いでしょうけれど、でもきっといつの日か思い出される日が来ます。それまでお身体をご自愛されてください……」
「はい、そうですね……」
「ニーナ様……?」
 レナの言葉に目を伏せるニーナに小首を傾げる。記憶が戻らなくて不安……それもあるだろうが、それだけではないように感じる。
「ニーナ様、何が不安なのですか?私で宜しければお話下さいませ」
「レナさん……私、……」
 レナの表情も声も慈愛に満ちていて、まるで迷子になって泣きじゃくる子供に優しく手を差し出して、握ってくれるのをずっと待っていてくれるようで。思わず口にしかけて、でも躊躇い口篭もる。そんなニーナを見て迷ったが、思い当たる名を口にした。
「……カミユさん?」
 びくり、と華奢な肩が揺れた。吃驚した顔が正直に彼女の動揺をそのまま表していて。「どうして」と顔を上げる彼女にレナは苦笑を漏らす。
「ニーナ様はカミユさんを見つめる瞳が不安そうでしたから……何か、彼に訊きたい、けれど訊けないことでもあるような」
「……はい……自分でも、よくわからないのですけれど。彼を目にすると、漠然とした不安が広がって……正直、怖いのです……彼はとてもいい人なのに……」
「ニーナ様……彼もあなたを心配しています、とても……」
「はい、とても優しくしてくれます……とても」
 心が痛くなるほどに。
――何故だろう。
 他の、例えばジョルジュやリンダやジュリアン、目の前のレナと言った人たちの気遣いには何の疑念も浮かばない。ただひたすら素直に、感謝と、嬉しさと、迷惑をかけてしまっている申し訳なさでいっぱいになる。だけれど、あの金の髪と青い瞳の男の優しさが、何故だか痛いと感じるほどまでに心に響いて。
 胸が、ざわつく。

 教会を出て、川原で意を決して訊いた。
 自分は何者か。「ニーナ」という名以外に知りたかった。何者かに狙われている自分。「様」付けされる自分。
――何より、彼にとって、自分は何者なのか、と。
 返ってきた答えは予想以上のもので驚きを隠せなかったけれど。そして何故か涙が勝手に出て、彼を困らせてしまって自己嫌悪した。
 もっと、それ以外の彼の言葉を訊きたかった筈なのに、怖くて訊けなかった。異常なまでに彼に対して敏感になってしまっているのは何故なのだろう。

 自分がアカネイアという国の「王女」であると知って。
 そのあとに、やはり彼が「騎士」だということも確信して。

 ああ、やはり、と――

 諦念の混じった言葉が胸を刻んだ。