薔 薇 想 歌   



「――忘れねばなりませぬ」

――……

「あなたはアカネイア聖王家の最後の生き残り。最早あなた様のお命はあなた様だけのものではないのです。生きねばなりません、己の為にではなく。世界の為に。全ての民の為に。闇に立ち向かう光として。揺ぎ無く存在する希望として」

――はい……。

「王女としての立場と責任を忘れることは許されないのです。世界が平和になっても。否、平和を取り戻した今こそ、象徴として民を導かねばなりません」

――わかっております……司祭様……。

「そのような憂いを帯びた様子では象徴足りえませぬ、二ーナ様。私はあなた様に酷なことを申し上げる、残酷だと……非情だとわかっていながらもそうします。そうせねばならないのですから。 あなたは秘密を心に抱いたままこれから生きねばなりませぬ、決して悟られぬよう、永遠に。それがお厭ならば、一刻も早く忘れることです。
 それが皆が幸せになれる最善の方法です……」


――……幸せ……。


「はい、死んだ者は二度と……帰ってはこないのですから……」







「……ん……」
 ずしりと重い瞼の感覚はいつものことだ、と頭の片隅でぼんやりと思いながら緩慢な動きで瞼を開ける。次第にはっきりとしていく視界に映ったのは鮮やかな金色の髪、そして海を思わせる瞳。
 その双眸が自分を見下ろして不安げに揺れている。
 鮮やかな海の色。のみこまれてしまいそうな。
 海は、嫌い。
―……どうして?


「……ニーナ?」
 躊躇いがちにそう声をかけられて、はっと琥珀色の瞳を見開かせ慌てて身を起こす。どうやら意識がまだ完全に目覚めてなかったようで、先程の胸をつくような思考もすぐ霧散してしまった。
 ベッドの片隅に腰掛けているカミユの存在に驚いて少し身を引く。
「あの……」
 とりあえず、おはようございます、と言うべきだろうか。
 ニーナはおずおずと声をかけようとしたがそれは降ってきた声にさえぎられた。
「怖い夢でも見たのか……それとも、やはり」
 不安なのか――そう、ぽつりと。
「……え……」
 頬に触れるか触れないかの指先。
 それで初めて自分が涙を流していたことに気付いた。
「いえ、怖い夢を見たわけでは……」
 何か夢を見たような憶えはあるけれど、覚醒とともにそれは一瞬にして霞のような存在になってしまった。ただ良い夢だったとだけは思えないが。
「あの、大丈夫です。私朝に弱くて、どうやらいつもこんなかんじで。身体が先に慣れてしまってるのか、別に、その」
 自分を気遣ってくれる様子に慌てて言い募る。口にした後でフォローになってないと気付きニーナはああ、と項垂れてしまった。
「すまない、私が君を困らせていては本末転倒だな。君を起こしに来たのだが少しうなされていたようで心配になってね」
 そう言って柔らかい笑みを向け、立ち上がった。同時にふわりと頭上に暖かい感触が降ってきた。ぽんぽん、とまるで幼子をあやすかのような優しさでニ、三度繰り返して、そして「着替えたら食堂に来て欲しい」と言い残して部屋を出て行った。
 ニーナは暫く扉の方を眺めていたが寝巻きから通常の、村の娘の着るような簡素な服に着替えた。頭から被り、腰の位置で帯用の布を巻きつけ結ぶ。結び方にはそれぞれの好みがあるのだが、当然流行りのようなものもあって。だがそんなことを記憶喪失のニーナがわかる筈もなく、シルクに教えてもらった。着方など見ての通りのとても簡単なものの筈なのだが、ニーナはこれすらおぼつかなかった。当たり前と言えば当たり前な話だ。だが、ニーナはそんな自分を情けなく感じた。周りの人たちが優しいからといってこんなことでは、せめて自分のことくらい自分で出来るようにならねば、という思い。そしてやはり記憶喪失からくる不安の波には勝てなかった。
 そして昨日。そんな時に彼は現れて。自分をニーナと呼んだ。
 最初は何のことだかわからなかった。きょとん、と目を瞬かせ、知らない、わからない、と言う私に驚きと哀しみに揺れる青色の双眸。
 それを見て。
 心臓を掴まれたような、酷く息に詰まるような思いを抱いた。
 目の前の自分を知っていると言う存在が、自分を探してくれていたのだという嬉しさもあったが、それ以上に思い出せないことが辛かった。思い出したいのに白い霧がかかったかのように不鮮明で掴み所がなくて。ずきずきと鈍い痛みが頭を襲い、そこで中断せざるをえなくなってしまう。


「遅くなってしまってごめんなさい」
 恐縮したようにニーナが食堂に顔を出した頃には彼女以外の者は皆集まっていた。彼女に気付いた数人の子供が駆け寄ってスカートの裾をぎゅっと握る。くもの糸のように皺になった裾を眺めながら不思議そうに小首を傾げ金色の髪を揺らす。
「おねえちゃん、行っちゃう、の?」
 か細い、頼りなげな声。
 ニーナがどうしたの、と尋ねる前に子供は寂しさを隠そうともせずに見上げながらそう言う。目じりには涙も滲んでいて。
「……え?」
「おねえちゃん、ここにいちゃ駄目だって、危ないって。だから、出て行っちゃうって……」
 ぐずぐずと今にも泣きそうな子供にニーナは慌てて腰を下ろして目線を正面から合わせる。ふわり、と両手で子供の頬を包んで宥めようとした。
「……シルクさん?」
「ロザ……いえ、ニーナさん。私がみていますからあの方たちのお話を聞いて下さいな」
「はい」
 シルクの言葉に促されてニーナが幾分か緊張した面持ちで彼らの方へ歩み寄って。そして、耳に届いた言葉は予想以上にニーナの心を驚愕させた。
 私が、狙われている?
 一体、誰に…?
 私は、一体……。
 混乱ばかりで上手く思考が纏まらない。ニーナは呆然とカミユと、その隣に座ってこちらを心配そうに見ているジョルジュを見やる。余りに突然で、突拍子の無いことで言葉が出ない。
「……シルクやクリフに訊いたところ、ここ数日は何もないようだが……だがまだ油断は、出来ない。記憶がなく心許無いだろうがどうか私達と共に来て欲しい。貴女を、護りたいんだ」
 そう真剣な表情で言われてしまっては、とてもじゃないが信じられない、とは言えなくて。それにここにいて自分のせいで周りに迷惑がかかる、という事態だけは避けたい。それにもしかしたら記憶を取り戻せるかもしれない。そこまで思い至ってニーナはゆっくりと頷いた。
 それを見届けたジョルジュは、俺は先に急いでこのことを王に伝えに行く、と言い、そしてニーナの目の前までやってきてその場で跪いた。胸に緩く握られた拳を当て、頭を伏せ。後ろで括られた金の髪がさらりと下へ流れ落ちる。
「暫くお傍を離れることをお許し下さい。……ニーナ様の行く先に光があらんことを」
 最後の言葉はいつもは王女であるニーナが戦いや任務でその地に赴く自分達にかける言葉であった。無事と、幸運を祈る言葉。ジョルジュなりの、早く記憶を取り戻して欲しいという願いの表れのつもりなのだろう。そう口にして彼は颯爽と教会の外に出て行った。
 途中、カミユの傍を通り過ぎる際に肩をぽん、と軽く叩く。カミユが訝しげに見遣ると、ジョルジュが目で何か合図らしきもの―を送り小声で何か呟いた。カミユは、その呟きに瞳を瞬かせ、苦笑しつつ頷いて返した。
 ニーナはというと、まだこうやって扱われることに慣れていないのか、その場で固まっていた。


 ぐずる子供達に、また絶対に会いに来ます、と指きりで約束をして旅仕度を整えているときに、ふと呟いたシルクの言葉にニーナは、え、と軽い驚きの声を発した。
「ジーク様、あ、カミユ様でしたっけ。彼も貴女と同じで記憶喪失だったの……」
 彼の以前の不遇な境遇を思い出してか溜息を吐く少女にニーナはもう一度訊いた。
「ええ、今は記憶を取り戻したのだけれどね。だから大丈夫。貴女もきっと戻るわ」
 励ましのつもりで言った少女の言葉を笑顔で受け止める。その反面、少しがっかりしている自分に驚いた。
 そうか、彼はだから、自分にこんなにも優しいのか、と。
 納得して心がすっきりしたのはいいが、気落ちした気分は暫くは取り戻せそうになかった。そんな思いを頭を振って追い払って、ニーナは目の前の少女に伝えられる限りのお礼を言った。
またいつでも遊びに来て下さいね、と朗らかな笑みを浮かべる少女に快く返事をし、カミユとともに教会を出た。