薔 薇 想 歌   



 ばん、と強く扉の開く音とともに、カミユとジョルジュは目的の館へ堂々と侵入した。召使達が突然の出来事に動揺し騒ぎ出す。執事の一人が戸惑いつつもカミユの姿に目を留め、「こ、これはジーク様ではありませんか。一体こんな時間にどんな御用でしょうか?」と声をかけた。
「地下室への道を教えてもらおうか」
「は、地下……ですか……?」
 カミユの言葉にますます執事は首を傾げ困惑する。どうやら地下の存在を知るのは少数なのだろう、この執事は知らないらしい。カミユ達は主のいる部屋に向かい、突然の侵入者に驚愕し混乱に陥ったこの館の主である貴族に強く詰問する。戦闘時のような鋭い威圧感を持った二人に圧倒され、主は為す術もなく大人しく従った。隠し階段を降りるとそこには湿った空気の漂う地下牢があった。びくびくと震える身体を抑えつつ主はニーナのいるところまで足を進めた。だが、そこには何者の姿もなく。カミユ達より先に主が驚愕の声を上げる。
「な……っ! いない?! 逃げたか、あの女……!」
「どういうことだ」
「ひっ、お許し下さいジーク様……! 確かにここに閉じ込めていたのです、だがあの女を連れて来た黒マントを被った女もおりません、きっとその女が……」
「俺達に気付いて一足早く逃げたな……」
 混乱し許しを乞う主を冷たく見下ろしながら、ジョルジュがち、と舌打ちする。
「まだそんなに時間は経っていない筈だ、追うぞ」
 当たり前だと言わんばかりにジョルジュも踵を返す。残された主はへたへたとその場に膝をついた、緊張が解けたからだろう。しかしすぐさま騎士団が到着し、捕獲される事となる。


「ジーク様、街外れの森にそれらしき人物が入っていったという情報が」
「わかった、お前達はこの森の周囲を固めてくれ」
「はっ」
(さすがは元グルニア黒騎士団率いる知将……敵であった時はこれ以上にない位厄介な存在であったが、味方となるとこれ程役に立つ存在もいるまい)
 ジョルジュはカミユの手際の良さを見て改めてそう思わずにはいられなかった。街から数百メートルと離れたところにある森。そこにニーナとニーナを連れ去ったという黒マントを被った者がいるらしい。下手に追い込むと何するかわからないので、とりあえずカミユとジョルジュ数人で森の中に入り、後の者は周囲に張り巡らせ退路を断たせた。




「……予想より、あんたの騎士様達は優秀なようだ」
 競売用に、薄く胸の開いた淡いピンクのドレスを着せられたニーナは手首を縛られたまま女に街の外に連れ出され、今は薄暗い森の中。カミユ達が館に侵入するより一足早く追っ手に気付いた女はニーナをそのまま無理やり連れ出したのだった。薄着のせいかニ―ナは寒さで震え、鳥肌までも立っている。だがそんなニーナを気に留めることもせず、女は森の奥へずんずんと入っていった。
 生茂った道無き道を歩き、時折躓きそうになるニーナを苛立ったように見下ろす女。ふとある方向を見、ニーナに向かって含み笑いをした。
「ここはよく自殺志願者が訪れるらしいね」
「っ!」
 女の視線を辿るとそこには人間の形をぎりぎり保った、腐乱死体が倒れていた。どす黒い肉が剥がれ落ち骨が見え、鼻につく悪臭にニーナはばっと顔を背けた。こんな寂しいところで一人死んでいくのに最期は耐えられなかったのだろうか、救いを乞うように腕らしきそれがニーナに向かって伸ばされており、背筋が凍る。
「ああ、大丈夫。あんたはあんな風にはならないさ、私はそこまで気が長くないんでね……」
 くっくっく、と喉を鳴らすように笑う女にニーナは表情を歪める。
「お前の騎士様はここまで辿り付けるかね」
「お願い、私はどうなってもいいですから、他の人には何もしないで……」
 ニーナは必死で女にそれだけは、と辛そうに願った。これ以上、誰にも迷惑をかけたくないのに。ニーナは自分の無力さを悔やんでいた。
「くく、目の前でこの細い首をかっ切ってやるのも楽しいかもしれない……私としてはすぐに殺すのは本意ではないけれどね。お前にはハーディン様以上に生き地獄を味わってもらわなくては」
 ――私は死にきれない、そうはっきりと告げ、その言葉にニーナは愕然となった。もう、何を言っても無駄なのだと。目の前のこの人も憎しみに心を囚われ、自分を見失っている……あのときのハーディンのように……全てを憎み、呪っているのだ。

「……っ」
 ニーナが何か言葉を発しようとした時、突然女に口を塞がれつつ茂みの中に引っ張られた。
「少しでも騒げばこの場で、殺す」
 鋭利な刃先をニーナの喉に当てつつ、低く抑えた声でそう脅す女にニーナは身を硬直させた。女は茂みの中でニーナを後ろから拘束しつつ、身を潜めるようにして気配を窺っている。女は遠くからこちらの方へ向かってくるカミユ達の気配に気付いたのだ。あちらが自分達を見つけているのかはわからない、とりあえず様子を見るため女は己の気配を絶った。
 段々と近付いてくる茂みの音。辺りを探るようなその足取りはまだ自分達を見つけていない証だ、女は短剣を握る手に力を込め、更にニーナを脅しつつ引き続き様子を窺っていた。

「……」
「……気付いているか?」
 神妙なジョルジュの言葉にカミユは頷く。
「ああ、空気が緊迫している…近くだ」
 闇の中、視界が利くのは足元を照らす灯し火だけ。だが日頃の修練から夜目遠目に優れたカミユ達はその場に立ち止まって辺りの気配を探りながら見渡す。
(ち、見つかるのも時間の問題だ……)
 女は内心で舌打ちし、後手に回る前にその場から離れようとした。かさ、という音に反応したカミユとジョルジュの視界に入ったものは、ニーナの喉に刃を突きたて盾にしながら走り去る女の姿だった。
「ニーナ!」
「ニーナ様!」
 同時に叫び、二人は慌てて後を追う。
(カミユ……ジョルジュ……っ!)
 口を塞がれ、その叫びは声にはならなかった。だが、まさかこんな形でカミユの姿を見ることになろうとは思いもしなかった。この世で一番会いたくて、でも今は一番会いたくない人。そしてまた周囲に迷惑をかけてしまっていることにニーナはひたすら罪悪感を憶えた。縛られた手首がその拘束の強さに痺れ、寒さのせいか全身の感覚までもが段々なくなっていくように感じる。
 ニーナを盾にされてはジョルジュの自慢の弓も遣えない。しかも女の足とは思えない程の素早さ、ニーナが重荷となっているにも関わらず、生い茂る木々の中をすり抜けるようにして逃げて行く女に驚かざるを得ない。相当の手練であることは間違いないであろう。カミユ達は追い詰めるぎりぎりの距離を保ちつつ後を追った。追い詰められた女が逆上してニーナに何かするのを避ける為だ。
 そして暫くし、ある場所にて女は足を止めた。背後からは轟々と響く音、おそらく川があるのだろう。崖の淵に辿りついた女はカミユ達を振り返る、ニーナを拘束した手は緩めないまま。

「ニーナを解放するなら、お前は見逃してやろう。さあ、観念しろ」
 女の間合いぎりぎりまで詰め、努めて冷静にカミユは言い放った。そもそも目の前の女がニーナに執着する理由がわからなかったのだ。慎重に、女の様子を探る。だが女の反応はごく冷めたものであって。
「目的を手中にしているにも関わらず、それを自ら手放そうとする馬鹿がこの世にいるかい?」
「!? 貴様、ニーナ様が狙いなのか?」
「そう……ずっと、ずっと狙っていたさ。そして、漸くその機会に恵まれた」
 驚愕するカミユとジョルジュに向かって昏い笑いを浮べる。
「お前は……暗殺者か?」
 この独特の雰囲気は正規の兵士、騎士といったものとは違う、もっと裏世界に生きる者の放つ気配だ。しかもジョルジュ程の腕を持つ者に気配を悟られないでいるのは、暗殺といった気配に敏感な仕事を生業にする者ぐらいでなければ無理であろう。カミユの言葉に女は沈黙して肯定した。じりじりと後ずさり、高く遠く下に流れる川のうねるような音が背中を襲う。そして、女はにやりと愉悦を含んだ笑いを残し――
「……これは賭け、だ」
 まだこの女を殺すのは、足りない……だが、この場で自分の命の安全を確保する為にみすみすこの女を解放したとて、もうこんな好機に巡りあうことなど叶わぬだろう。自分の命などどうでもいいのだ、私がただ望むのは……――
 ぐらりと、女の身体が傾き、そして。

「ニーナ……っ!!」
「ニーナ様!!」
「――……っ!?」
 叫び、崖の淵に走り寄った時は既に遅く、ニーナもろとも女は崖下の川へ落ちて行った。
 ニーナは何が起こったのかわからず、ただ一瞬の奇妙な浮遊感の後の全身を押しつぶすような圧力、星が瞬く夜空が視界を支配していく様、そして先程まで自分がいた場所にいるカミユとジョルジュの姿が物凄い速さで遠ざかり、それによって自分が崖から落ちている、ということを半ば他人事のように感じた――理解するよりも早く、川の濁流に呑まれそのまま意識が飛んだからである。カミユの驚愕に染まった顔が意識が飛ぶ直前まで頭にこびりついて離れなかった。あんなに驚いた顔は初めて見た。自分の名を必死に叫び、ただそれだけでニーナは胸が一杯になり泣きそうになったのだった。




「ジーク……!」
 森の入り口にてやはり心配なのか彼等の帰りを待っていたアルム、セリカ、デューテ、メイ、ティータ。待ちわびた彼等の姿に安堵し名を呼んだ。だが、それは一瞬だけですぐさまアルム達は彼等の異変に気付く。ジークとジョルジュの表情は見たこともないくらい昏く――それは決してこの夜の闇のせいではない、それがアルムの不安を煽った。まさか、とは思うが。
「……ニーナさんは、見つからなかったのか……?」
 おそるおそる訊いた。期待しているような返答は得られないとその表情から悟り、正直あまり訊きたくはなかったのだが。
「……崖下の川に落ちた……ニーナを連れ去った女が自らも一緒に」
 眉間に皺を寄せながら苦悶に満ちたカミユの声と、その内容に誰もが驚く。
「そんな……」
 この森は深く昼間でも昏く、自殺志願者がよく訪れると言われ、地元の人間もあまり近付きたがらない場所だ。道という道なき森、そして川が幾筋にも分かれ流れ、切り立った崖が随所にあるという。だが群生する雑草や木々によって隠され、一歩先には崖、という状況が多いらしい。その点でもここは危険視されていたのだ。川は流れが早く深く、下流においても見つけるのは困難だとも誰もが知っていた。最悪の状況を予想して誰もが沈んだ表情を浮かべ押し黙った。
「今すぐに捜索に向かう」
「……ジーク様?」
 聞いたことのないような焦燥の混じった声色にティータは思わず彼の名を呼ぶ。彼は居ても立ってもいられずこのまま夜の闇の中、捜索に向かうつもりらしい。疲弊した表情が彼の深刻さを充分に語っていた。
「駄目だジーク、街の巡回に続き夜通し森の中を駆け回っていたんだ、少しは休まないと先に君の身体がどうにかなってしまう。一先ず今晩はソフィア城で身体を休めてくれ」
「いや、王。私は……」
「落ち着いて、ジークらしくもない。こういう時こそ冷静にならなくちゃ……僕はすぐに捜索隊を結成して下流域に向かわせるよ、ただでさえこの川の下流は広大で多数にも分かたれて、捜索は困難で、時間がかかる」
 なんだかいつもとは立場が逆だな……いつもは宥められる役だというのに、そしてジークは常に冷静で人を宥める側だというのに。奇妙な感覚を感じながらも、努めて平静にアルムは述べた。
「……ニーナは生きている」
 アルムの言葉にますます眉間の皺を深め辛そうに目を伏せたカミユ、だが自分に言い聞かせるようにそう言い放った。その言葉にアルムも瞠目し、そして静かに強く頷いた。
「この目で確かめるまで私は諦めない」
「ジーク……」
「そうだね、諦めるのはまだ早いよ、勿論僕達も協力する。とりあえず今は身体を休めてくれ」
 カミユの強い言葉に周囲も促され、アルムにも明るい表情が戻った。カミユはアルムの優しさに済まなさそうに礼を述べ、頭を下げた。
「俺もマルス様にこの事をご報告せねば」
 ミディア達の悲壮な顔が容易に頭に浮かび、苦笑するジョルジュにアルムはアカネイアへの使者を出す事を提案してくれた。