薔 薇 想 歌   



……ん。

ぴちゃん……。

(――頭が、ずきずきする……)
 酷い頭痛、そして水が地面を打ちつける音が遠くから段々と近付いてきた。白濁した意識が徐々にはっきりとしてきた為だろう。頬に感じるのは冷たく硬い感触。ニーナはずきずきと痛む頭を抑えつつ、ゆっくりと瞳を開いた。
 窓もなく薄暗い闇、湿った空気が漂い、ニーナはうつ伏せに倒れていた。片手で支えながら上半身を起こし、ゆっくりと辺りを見渡す。地下牢らしく、ニーナは並ぶ牢の中の一つの部屋にいた。目の前の錆びた鉄格子が視界を邪魔する。
「目が覚めたようだね、お姫様?」
「!?」
 気配もなく鉄格子を隔て目の前に表れたのは、ぴったりと身体を覆う黒い服装に黒いマント、顔上半分はフードによって隠されてはいるが、赤く濡れた唇と声色から女性と判断できた。
「あなたは……ここは、一体……」
 祭りの喧騒もここには届かない、響くのは両者の声と漏れる水の滴る音だけ。女は鉄格子ぎりぎりに近づいて腰を下ろした。すっと、差し出された右手の中には金色の髪が一束握られていた。ニーナは、え、と呟き、自分の髪を触る。見ると腰まで届く髪は無残にも一部切られており、肩下の長さになっていた。それよりもぎょっとしたのは、己の髪の色だ。見なれた金髪ではなく、真っ黒に染まった髪。
「金髪はね、ここではよく売れるんだ……、だが同時に目立つ。特にお前のような人間はね……だから黒く染めてやった。なぁに、今だけだ。それに色は簡単に落ちるから心配しなくてもいいよ」
 ニーナの金髪の束を握り締めながらどこか満悦そうに口元に笑みを浮べる。ニーナはただこの異常な事態に対処できずにいた。というよりも何が起こっているのかわからず、ただ呆然と目を見開く。先ほどまで街中にいたはずなのに……、そう言えば何か強い衝撃があって、そこから記憶ははっきりしない。
「……まだ、状況が掴めていないようだね? まぁお姫様だし無理もない。ここは見た通り地下牢、闇商人達が闇取引する場でもある」
「――!?」
(――人身売買)
 女の言葉にまずその単語が浮んだ。かつてリンダも奴隷商人によって売買されそうになったことがある。話には聞いていたけど、まさか自分がこんな場に来ることになろうとは。そしてそれよりも引っかかる言葉があった。
「お姫様とおっしゃいましたね……、私をご存知なのですか?」
 ニーナは目の前の女性に見当などつかなかったが、どこかこの目の前の女性は自分個人に対して何か含みがあるかのように感じられたのだった。
「中々、胆が据わっているようじゃないか。さすがはアカネイア聖王家最後の生き残り、ニーナ王女。……いや、もう王家を放棄したお前を王女と呼ぶ意味はないね」
「……あなたは、何者ですか? ……私が、狙いなのですね」
 女の侮蔑の篭った声にも負けじとニーナは問い返した。

「……世界は平和になり一つとなって復興に人々の心は燃え、笑顔と希望に満ちている……だが、私の心に巣食うのは絶望だけだ……」
 ゆっくりと、吐くように紡がれる言葉にニーナは耳を澄ます。
「人々はマルス王子を英雄と賛美し、そこに希望を見出す、そして打ち倒された先のアカネイア王は人々の畏怖と怨恨の的であり……人々は呪いの言葉しか吐かない……」
 そこまで聞いてニーナは、はっと表情を変える。僅かに身を震わせ、ぎゅっと己の手を強く握った。
「あなたは、まさか……」
「……ハーディン様は、我等オレルアンの砂漠の民を奴隷の身分から解放して下さった、我等にとっては英雄だったのだ……! いつでも強く優しく、大きくあらせられたのに……、貴様のせいで、人々からは“暗黒皇帝”などと呼ばれ……!」
「……っ……」
 ニーナはぎゅっと唇を噛み締めた。今でもハーディンのことを思うと胸が痛い。罪悪感でいっぱいになる。確かに彼を追い詰めてしまったのは自分なのだから。
「……貴様がハーディン様を狂気へ導き、そして……ああ……何という……哀れすぎる、最期だ……私は憎くてたまらない……、今の希望に溢れた世界もマルスも、何よりもお前が……っ!」
 女は呪うような昏い声でニーナを責め続けた。ニーナは俯いてその言葉に耐えた。
(私が……カミユを忘れられなかったから……カミユ以外を愛せなかったから……ハーディンは私を愛してくれていたのに……)
  この罪悪感はずっとニーナの心に影を落としていたものだ。私がハーディンを愛せていたら……カミユを忘れることが出来ていたなら……、そもそも悲しい戦争など起こらなかったかもしれないのに。そう思うとますますニーナの心は打ちのめされてしまう。
 でも人の心ほど自由にならないものはない……たとえ己であっても。自分でもどうすることのできない気持ち。どうしても、忘れられないのだ。どんなに辛くても悲しくても。暗黒戦争において彼が自分達と戦い敗れ、死んでしまったと思ったときも。彼にはもう他に護るべき人がいると知っても尚。どうしようもないこの問答も、永遠に続く堂々巡りも、結局いっそ己さえいなければよかったのに、という結論に達してしまって――

「貴方は、私を殺したいのですね……」
 ニーナは静かにそう呟く。だが女はうっすらと笑い。
「そう言えば、あのジークとかいう男……お前の恋人か?」
「! 彼には何もしないで! ……か、関係ありません……彼には他に恋人が、いますから……」
 女のねっとりとした、愉悦を含んだ声色にニーナは、カミユに何かする気なのでは……と動揺して思わず声を上げた。だが、すぐその反応を悔い、努めて冷静を装う。
「ほほ、健気だねぇ……心配するでないよ。いくら私でもあの男が相手では分が悪い」
「!」
 ニーナの反応に心底満足がいったように、愉快そうに声を上げて笑う女。最初からニーナとジークの関係はおおよそ知っていてからかったのだ。ニーナは顔をかっと赤くして俯く。

「お前はこれから奴隷商人によって金銀と引き換えに売られて行くのさ。お前はさぞかし高く売れるだろうねぇ、せっかくだから私が斡旋してやろう。どこがよい? 金持ちというのは趣味の変な輩が多くてね。人肉や死姦、血液嗜好症(ヘマトフィリア)など我々常人には理解できない嗜好を持つ者ばかりだ……」
「……」
「まずお前は今夜、競りにかけられる。金持ちには変態趣味が多く、そして収集家が多い。お前のその白魚のように滑らかな指、透き通るような琥珀の瞳、金色に輝く髪……おそらく高値がつけられるだろう。もしかしたら一部だけで満足する輩もいるかもしれないからね……達磨状態で愛玩されるかもしれないね? ほほほ、そうならないようにお前の全てを高く買ってくれる奴がいることを祈っていな」
 楽しそうに想像を繰り返し、ニーナに笑いかける女の瞳は決して笑いは含まれておらず。
「そうですね……私は罰を受けねばなりません。あなたの怒りは当然なのでしょう……でも私には、私を心配して待って下さる人たちがいます。まだ死ぬわけにはいきません」
 女の恐ろしい言葉に怯えているのも事実だ、女の自分を恨む気持ちも理解できる……だがだからと言ってこのままでいいはずはない。ニーナは目を伏せて静かにそう呟いた。こんな状況になっても毅然と、王女然とした気迫を保っているニーナに女は少し圧倒された。同時に、そんな己に舌打ちする。
「このような方法でしか……あなたは安息を得られませんか? 他にないのか、一緒に探すことは無理な願いでしょうか」
「ふん……とんだお姫様だ、恐れ入るよ。お綺麗な心をもつシスターに理解してもらおうなどと思っちゃいない。あんたみたいな人間と馴れ合う気などは全くないね
「……私は、心が綺麗なんかではありません……私は……」
 女の何処か自嘲の含んだ言葉に、ニーナも俯いた。






「しかし、驚いたな」
 ジョルジュは歩きながらカミユに向かってそう言う。祭りの盛り上がりはこれから最高潮へと達する、そんな時間。ジョルジュ達は手分けして街の中をニーナを捜して奔走していた。
「まさかあんたがアカネイアに戻ってくるつもりだとは思わなかった」
「……グルニアはまだ戦争の被害が酷い」
「まぁな、今はマルス王が幼いユベロ王子に代わって統治しているが、まだまだ隅々まで手が届いてはいない。グルニアの守備隊長となったドーガも周辺の未開部族の鎮圧に手がいっぱいだ」
 ジョルジュの心底意外そうな声に真面目な表情で応えるカミユ。暗黒戦争において自分が破れた時に、それまで周辺の荒ぶる山賊達を抑えていた黒騎士団は崩壊し、グルニアの力の均衡は崩れた。今や、グルニアは好き勝手に暴れる山賊や盗賊でいっぱいである。いくらマルスと言えども、他にもオレルアン、マケドニア、グラなどまとめあげねばならない荒廃した国は多く、グルニアに充分に手が行き届いてない状態であった。
「ニーナ様に会うつもりはないのか?」
 もっともな意見だが、これだけは聞いておかねばならない、そう思いジョルジュは彼にとって重いその言葉を吐いた。
「ああ……、ニーナとはもう一生会うつもりなどなかった、その方が彼女にとってもいいだろう」
「……あんたはそれでいいのかもしれないがな」
「……何?」
 やはり、というか予想していた答えが返って来て思わず溜息を吐いた。カミユはそんなジョルジュを振り返って見る。そして訝しげに呟く。
「……ニーナ様にとっては死んだと思ってた奴が生きていたと知ったんだ。会いたいと思うなんて当たり前のことだろ? 満足に話もできないでハイさようならって、ちょっとニーナ様の気持ちを無視しすぎじゃないのか? そんなんだったら下手にニーナ様の目の前に現れないで欲しかったね、俺は」
 まぁあの時あんたがいなければニーナ様は魂が砕かれたままだったってのは棚上げするがな、とジョルジュは肩を竦める。
「……」
 カミユは押し黙る。彼女を護りたい気持ちはずっと変わらない。だが、彼女には自分はいない方がいいと思っていたのだ。それは自分が彼女の国と父を奪った仇であるからなのか、最期まで彼女より祖国を選んでしまったという罪悪感からくるものなのか、自分では量ることなど出来なかったけれど。
「とにかく落ち着いて話くらいはさせてやってくれ。蛇の生殺し状態なニ―ナ様を見ているのは辛い、俺だけじゃなくて。だから今俺達はここにいるんだ」
「……ニーナが?」
 ジョルジュの言葉に思わず訊き返した。
「必死であんたを忘れようと、何も考えないでいられるよう自分の身体を苛めてたな。自虐趣味でもないのに」
「そうか……」
 呟いて目を伏せた。それまで沈黙して二人の話を聞いていたアルムはジークの抱えている事情をおおよそ知ることが出来た。そしてこの複雑な人間関係に自分は一体どうすればいいのだろう……と悩んでいた。やはり関係のない自分はあまり関わらないで彼自身に選択を任せるのが一番だ、という結論に達した。自分は黙って見守って、彼が助けを求めてきたときに出来るだけのお節介を焼けばいいのだ、それでこそ男の友情、と何だか訳のわからない言葉で締めアルムは納得した。
 そんな時、アルムの元に兵士が訪れ、耳打ちする。どうやらニーナらしき人物の居所が知れたようだ。
「ジーク、ジョルジュ殿。街外れにてニーナさんが黒マントを被った人物に連れ去られるのを目撃されたらしい。そしてある貴族の館に入っていったそうだ。情報によるとそこは地下で闇商人達によって闇取引が行われる場所らしい、主に人身売買」
「!」
「そして、今夜また競売が行われる」
「わかった、ありがとうアルム王。王はすぐに城に戻られよ」
「僕も手伝うよ、ジーク」
 思わずアルムは反論する。だが返って来た「王には他にも仕事がたくさんあるだろう、マイセン殿もきっと王を捜しておられる筈」という言葉にぐっと詰まる。そうだった、アルムは「すぐ戻る」と言い残してきたっきり、城を空けたままであった。苛立ったマイセンの小言を想像して溜息を吐く。そして力無く「わかった、気をつけてねジーク」と彼らを送り出した。
 表情を険しくさせ、カミユ達はニーナが囚われている貴族の館へと急いだ。