大陸一の豪槍 







 


                序


 マギ・ヴァル大陸北東部に広がる闇の樹海。
 悠久の過去に伝説の魔王が五人の英雄によって滅ぼされた地であり、その骸の生み出す瘴気によって歪んだ異様な木々や動物が徘徊する、暗黒の森。そこに生きる理性ある者は、魔王の封印を守る偉大なる竜人たちだけという、この世の最大の禁忌の場所。
 もはや数里と数えぬ距離にその黒々とした樹海を見据え、清廉とした白毛の軍馬に跨った青年はその秀麗な顔を険しいものに変えていた。彼が背後に従える五百余りの騎影に向かい合うように、闇の樹海前のわずかな平野を血に濡れたような紅の鎧の一団が埋め尽くしていたのだ。
 それは、今や見る者に恐怖と嫌悪を抱かせる色合い。大陸最強と謳われるグラド帝国の騎馬部隊三百だ。
「この期に及んで、まだリオンに……いや、魔王に従うというのか」
 苦悩の表れた苦々しい声で呟く彼こそ、闇の樹海を目指すルネス、フレリア、ロストンの三王国連合軍を率いる指揮官であり、一度は滅亡したルネス王国の第一王位継承者、エフラムだ。
 ルネスの山岳地帯が育む気性の荒い馬を自然に乗りこなし、青を基調とした軽装の部分鎧を纏ったエフラムは、若いながらもすでに少年の域を完全に脱した眼差しを前方へと向ける。無言で愛馬の鞍に固定されていた槍を手に取り、一呼吸。
 一度瞼を閉じて再度開けば、その瞳にあったわずかの同情が鍛え上げられた理性の下へと押しやられる。
 鋭い眼差し。槍を持つ一人の戦士のそれとなった青年は、そうして叫んだ。
「全軍抜剣! 俺に続け!」
「おおおおおおおおおおおお!」
 陽が傾き終わろうとした昼間という世界の最後に、これから始まろうとする戦の鬨の声が鳴り響いた。




                1


 大陸暦八〇三年。
 最大版図を誇るグラド帝国が同盟を結んでいたルネス王国に突如攻め込むことに端を発する戦争は、終局にかかろうとしていた。
 圧倒的な軍事力による、ルネス陥落。
 グラド王国はそれにも満足せずに、起源を同じくする『聖石』を奉ずる諸国家に進軍した。
 大陸北西部の海産物と貿易利益に恵まれた国家フレリア。
 大陸東部の砂漠と宝石の国家ジャハナ。
 大陸北東部の森と信仰の国家ロストン聖教国。
 古の魔王を封じた『聖石』を破壊することを目的とした侵略は熾烈を極め、すでにロストンを除く四つの『聖石』はこの世には無い。
 戦争を開始したグラド帝国自らも、ルネスの新しい王となったエフラムの手によって陥落した今、この戦争を継続させているのは、魔王の力を受けた一人の魔人──実父である死した皇帝を傀儡として全てを裏で操っていた帝国皇太子リオンの力だ。
 魔王の力を得た彼は制圧されたグラド帝国の国土には構わず、軍隊のみを率いて各国への侵攻を続行した。大陸を守護する聖なる力が弱まったことにより復活した数多の魔物さえ加えたグラド残党軍の戦力は、他国家のそれを上回り、各国に甚大な被害を与えた。
 国家首席を失った国。
 内部分裂した国。
 麻のように乱れた大陸。
 そしてその戦いの決着は、リオンの目指した最後の場所、ロストン聖教国の西部にある闇の樹海でつこうとしている。
 大多数の兵士が侵入することが出来ない闇の樹海の前でのグラド残党軍の布陣は、魔王の肉体の眠る魔殿へとリオンが到着するまでの時間を稼ぐ、最後の『戦争』になろうとしていた。

                ※

「右舷、弓兵隊射撃! 敵軍が乱れたところに、俺たちとロストン聖騎士団が出る。カイル、フォルデ、来い!」
 連合軍が動き出したのを見て雪崩のように走り出したグラド残党軍。その地響きすら起こす激しい蹄鉄の音に怯みもせず、エフラムは手早く指示の声を張り上げた。即座に伝令兵が復唱し、各部隊長に作戦を伝える。
 言葉を受けてエフラムの左右に進み出る騎馬は、緑の甲冑を着込んだ生真面目そうな騎士カイルと、赤い甲冑の陽気な騎士フォルデの二人だ。
「御意」
「りょーかい。お供しますよ」
 返事にも性格の違いを見せる二人は、しかしエフラムがもっとも信頼する側近で、連合軍とは別に組織されたエフラム直属の遊撃部隊の切り込み頭だ。打てば響く精鋭の返事に頷いたエフラムは、次に背後を振り返って言う。
「エイリーク。ゼトと一緒に本隊の指揮を任せる。出来るな?」
「はい、兄上」
 応えたのは、エフラムによく似た顔立ちの女騎士──否、本来ならば戦場に立つことさえ許されない、ルネスの王女エイリークだった。傍らにルネスの若き将軍ゼトを控えさせた彼女は、双子の兄と同じ秀麗な容貌を持つが、より角の無い大人しい印象が強い。それは生来の穏やかな気性を反映したもので、武に重きを置く兄と違って、その場にいることがあまりに場違いに周りからは見えるだろう。だが、王女である彼女が自ら戦場に立つことが、何よりも兵士たちの士気を高めているのも事実だ。
「お気をつけて」
「ああ、お前もな」
 出来るならば兄を危険な前線に送るのは避けたいところだったが、エイリークは従順にエフラムの指示に従う。それは、引き止めても無駄だとわかっているからこそであり、また一人の戦士としての兄の力を信頼するが故だ。
 エフラムは、エイリークを安心させるように小さく口元だけで微笑むと、すぐさま突撃する人選を行なった。遊撃隊の中から選ばれるのは突破力のある騎上の者たちが中心だ。
「射てー!」
 指示の通りに弓兵隊の放った無数の矢が、突進する紅の騎兵団の頭上に降り注ぐ。軍馬に装甲を張り巡らせ、速度よりも防御力を重視したグラド騎兵団の多くはそれに耐えたが、それでも何人かが防御の薄い部分に矢を受けて馬から落ちる。
 落馬した者を避けるために隊列がわずかに乱れたその隙を、エフラムは見過ごさなかった。
「突撃ー!」
 それを合図にして、待機していたロストン聖騎士団、そしてエフラムたち遊撃隊の馬は大地を蹴った。怒号のような馬のいななきが世界を染め、舞い上がった砂埃の向こうに兄を見送ったエイリークの前を意外な姿が横切ったのはその一瞬だ。
「え?」
 見間違いかと思ったが、夕日の中にも鮮やかな緑髪は間違いない。
「ラーチェルっ!?」
「安心なさいな、エイリーク。このわたくしがいれば、エフラムも鬼に金棒。怪我一つ無く帰して差し上げますわ!」
 純白の馬に跨り、片手をぶんぶんと振ってそう言ったのは、緑の髪を結い上げた少女だ。金糸で刺繍された王侯貴族のみに許される白い絹装束を纏った少女で、その手には翼を模した装飾の間に緑の宝石の収められた杖──伝説の魔王を封じた聖女ラトナの杖をしっかりと握り締めている。
 最後の『聖石』を守るロストン聖教国の王女、ラーチェルである。
「ちょ──」
 エイリークは、エフラムの人選の中に彼女の名が無かったことを思い出して呼び止めようとしたが、それよりも早くラーチェルは馬を走らせて行ってしまう。後に残されたエイリークが呆然としていると、
「ガハハ! ほれ、レナック、何をしておる。ラーチェル様をお守りするのだ!」
「あー、くそ。王子様に呼ばれなくてホッとしていたってのに、どうしてこうなるんだよ」
 髭面の重戦士が短い手足で馬に負けない疾走で、優男風の青年が投げやりに言って軽やかに、それぞれラーチェルを追って走り出す。
「ラーチェル、無茶をしないでくださいねっ。ドズラさん、レナックさん、よろしくお願いします!」
 ようやくそれだけを友人に叫んだエイリークの視界の先で、少女の杖が高く掲げられる。
 その直後、ついに両軍の騎兵同士が激突した。連合軍の先頭を駆けるのは、銀色に輝く槍を構えたエフラムだ。
「はあ!」
 馬の疾走の勢いそのまま、エフラムが右手の槍を一閃させる。すれ違い様の一撃は、馬上槍を構えた突撃兵の肩の装甲を弾けさせ、陽の落ちかけた赤い世界により真っ赤な鮮血を噴き上げさせた。
「もらいっ」
 体勢を崩したその兵士を、エフラムのすぐ後ろについていたフォルデの槍が馬上から叩き落す。さらにその上をカイルの馬が強靭な蹄で踏み砕いて通り抜け、哀れな兵士に止めを刺した。
 そのままエフラムを先頭とした連合軍は、鋭い一本の矢のようにグラド帝国軍に突撃した。猛烈な勢いで突進するエフラムを止める者は無く、全軍を引っ張る指揮官の姿に否応も無く兵士たちの勢いも増す。
 そして、三十を数える暇も無くグラド軍の中を通り抜けたエフラムの前に、闇の樹海が視界いっぱいに広がった。
 夕日の赤を拒むかのように、黒い森。闇そのものを凝り固めたような森は、邪悪な何かを人の目に触れないように封じている、砦のような威圧感を持っている。
 そこに、彼がいるのだ。
 エフラムが追いかける、この戦争を起こした張本人。グラド帝国皇太子であり、エフラムの親友であるリオンが。
(リオンを止める。そのためにも……こんなところで足止めされるわけにはいかない!)
 唇を噛み締め、エフラムは手綱を絞って馬を旋回させる。同じように最も危険な敵中を突破してきた仲間たちも、今度は背後からグラド帝国軍に攻撃を仕掛けた。
「すでにグラドにはまともな指揮官は残ってはいないはずだ。このまま一気に叩く!」
 本来の騎兵戦であれば、敵中突破後には再び距離をとって馬に勢いをつけるのが定石であるが、敵の指揮系統の弱みと、何よりも時間の無さからエフラムはそう叫んでいた。言い様に、迫っていた騎兵の槍を弾き飛ばし、返す槍の切っ先でその喉を斬り裂く。
 だが、それは慌てすぎだったのだろう。最初の攻防を逃れていた魔道士の放った雷の魔法が天からエフラムの騎馬のすぐ近くに炸裂して爆土を巻き上げた。
「く……っ」
 爆音に驚いて後ろ足で棹立ちになる馬を慌てて押さえ込んだエフラムの視界に、次の魔法の準備をする魔道士の姿が映った。相手の頭上に生まれた巨大な火炎に、エフラムは意を決めて馬の腹を蹴った。
「行けえ!」
 魔法の完成と、槍の一撃のどちらが速いか。例え火炎に包まれようと反撃でその首を落とす考えで彼は一直線に進む。
 と、その彼の前に、光の魔法陣が広がった。目を見開くエフラムに魔道士が炎を放つが、破壊の魔力は彼に届かずに光の障壁に弾かれて消えた。エフラムも何度か見覚えのある、障壁の魔法だ。
「はっ」
 誰だかわからない味方の加勢に、エフラムは難なく魔道士を斬り伏せる。続いて迫る兵士に向き直ろうとすると、その兵士が光の矢に撃たれて弾き飛んだ。
「油断大敵、ですわね」
 ついに敵味方入り乱れて乱戦に入る中、馬を寄せてきた少女の姿にエフラムは驚いて目を丸くした。
「ラーチェル? どうして君が」
 それに対し、ラーチェルは口に手の甲を当てて、コロコロと鈴が転がるように笑う。
「ルネス王子のあなたが先頭に立っているというのに、ロストンの王女たるわたくしが安全な場所に隠れているわけにはいきませんわ。それに、あなたの部隊編成には癒し手が見当たりませんでしたわ。あなた方についてこれる癒し手は、わたくしだけでしょう?」
「……確かに」
 三国の連合軍といえど、癒しの魔法の使い手は少ない。しかも、騎馬兵の速度についてこれる癒して手となると、ロストンの聖騎士団にも数えるほどだ。
 その点、ラーチェルは馬の扱いに優れ、さらに癒し手としての力はロストン聖教国でも一、二を争う。エフラムも、彼女の王女としての立場が無ければ、迷わず突撃部隊の編成
に入れていた人材だ。
 それを見透かしたように、少女は不意に真剣な瞳で言う。
「世界の危機に、王女も一兵卒もありませんわ。有用だと思ったならば、あなたのお好きなようにお使いなさい。この戦は、負けられないのですから」
「ラーチェル……」
 今度こそ本当に驚いて、エフラムは自分を真っ直ぐに見る小柄な少女を見つめた。普段、破天荒な言動で周りを振り回すラーチェルだが、時折その裏に大きな責任や使命感を覗かせることがある。一国の王女を好きに使えとは行きすぎだが、むしろエフラムはその心意気に心洗われた気持ちになった。
「そうだな……君の言うことももっともだ」
 自分だけが世界の行く末を憂えているわけではない。魔王の意志を飲み込んだリオンを追いかけることに焦りを感じているのは、自分ではないのだ。
「ええ。それに、ラトナ様の武具を得たわたくしを使わないのは失礼というものですわ」
「つまり、双聖器を使いたいわけか」
 付け足すように言って杖と魔道書を見せる少女に、エフラムは感銘の表情を苦笑に変えた。
 まあ、その気持ちもわかる。優れた武具を手に入れた際、実戦で使いたくなるのはエフラムも同じことだ。
「わかった。しかし、君は前線には慣れていないだろう。俺から離れないようにしろ」
「そちらこそ、わたくしの華麗な活躍に目を奪われて、なんてことの無い相手に遅れを取るようなことだけは無いようにして欲しいです──わ!」
 言うなり、ラーチェルは杖の先端を宙に走らせて、得意の光魔法を手近な敵兵に撃ち放った。正確無比な光の矢が、まさに閃光の速度で紅い鎧を貫き、暗くなりかけている世界に真昼の明るさを一瞬だけ取り戻させる。
 その様を見ていたエフラムは、自らも彼女と背中合わせに槍を振るいながら、小さく呟く。
「エイリークとは仲が良いようだが、自己主張の強い女だな……ロストンの女性は皆このような性格なのか?」
 近しい女性といえば、穏やかで慎ましい性格のエイリークと、幼馴染で甘えたがりな傾向のあるフレリア王国の王女ターナくらいしかいないエフラムである。
「……まあ、頼りにはなる」
「何かおっしゃいまして?」
「いいや。──伏せろ!」
「きゃっ」
 戦場での勘が、エフラムにラーチェルを一喝させていた。振り返ったエフラムの形相に思わず首をすくめてしまった少女の頭上を、彼の振り抜いた槍が通過する。
 弾かれたのは、一本の矢だ。
「気をつけろ。戦場では、流れ矢に当たることも珍しくない。直接狙われない分、殺気も無い。常に周囲に注意するんだ」
「え、ええ」
 おっかなびっくりと自分を見るラーチェルに、ふと思いついてエフラムは小さく笑う。
「つまり、油断大敵、だ」
「まあ!」
 先ほど自分が言った言葉を返され、ラーチェルが頬を膨らませる。そんな彼らの周りには、いつの間にか遊撃部隊の仲間たちが集結していた。国家も年齢もバラバラであったが、全員エフラムやエイリークの人柄に惹かれて集まった者たちだ。
「エフラム様。ご指示を」
 カイルが槍で外周の敵を打ち払いながら指示を仰ぐが、ここまでの激戦をくぐり抜けて来た仲間たちは、すでにエフラムの出す指示通りの布陣を敷いている。それでも、彼らの士気を高めるためにもエフラムは声に出す。
「このまま本隊と俺たちで挟撃、殲滅する。各々、二人以上の組で動き、常に別の組を助けられる位置を保て。負傷した場合は、本隊にまで下がり、癒し手の治療を受けろ。決して無理をするな」
「お言葉をお返しします、エフラム様。決して単騎で動くことだけはないように」
 常日頃から口を酸っぱくして言い続けていることを、カイルが口にする。それに苦笑すると、エフラムはグラド騎兵団とロストン聖騎士団の戦いを見据えて、槍を掲げた。
「行くぞ。散開!」
 放たれた矢のように、遊撃部隊の面々が馬を走らせた。一騎が二騎にも三騎にも匹敵する猛者ぞろいの遊撃部隊は、円を広げるようにしてグラド帝国軍を押し退けて行く。
 中でも、一番の働きを見せたのはエフラムとラーチェルを中心とする組だ。エフラムが斬り込み、ラーチェルが遠い位置にいる相手に光魔法を放ち、その護衛である凶戦士ドズラと盗賊のレナックが接近を許した敵を打ち払う。多少の傷を負うことがあっても、すぐ様ラーチェルの癒しの魔法が彼らを回復させ、その進軍速度は目を瞠るほどだ。
 その敵軍背後の混乱を見て取った本隊のゼトは、一斉に全軍を進撃させた。
(勝てる)
 エイリークと馬を並べて戦況を見守りながら、ゼトは冷静な表情の裏で計算していた。彼我の被害状況は、圧倒的な差で連合軍が有利だ。ここまで、被害らしい被害も出ていない。
 もとより、数の上では連合軍の方が上回っていたのだ。連合軍特有の指揮系統の混乱の心配も、エフラムとエイリークがフレリアとロストン両国の危機を救ったという事実が打ち消していた。皆がルネスの王子と王女を信頼し、全力を出して戦に挑んでいる。
 対してグラド帝国軍は、すでに母国を失った残党にしか過ぎない。帝国を支えていた六将軍も、すでに血碧石の二つ名を持つ司祭アーヴを残すのみだ。いかに帝国が強大な軍事力を備えていようと、拡大した戦場と連戦につぐ連戦はそれを疲弊させていたのだ。
 グラド帝国との最後の一戦は、そうして一方的な優勢のまま三国連合軍の勝利に終わるかと思われた。
 ──しかし。
「……おかしい」
 同じく戦況を見つめ、無意識に兄の姿を探し求めていたエイリークは違和感に呟いていた。
 グラド帝国軍は、これほど脆かっただろうか。つい先日ロストン宮殿を襲ったグラドの部隊は、歴戦のグラド兵そのものの強さを誇っていた。それこそ、ロストンの騎士たちを軽く一蹴するほどだ。
 だというのに、おかしい。一方的過ぎる。
「兄上……」
 漠然とした不安に、エイリークは自分の胸に手を当てて祈った。
 ただ、兄の無事のみを。





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