噂
そういえば、とふと思った。自分は彼の不機嫌そうな色を纏った声色しか耳にしたことがないな、と。 「あ、ヒーニアス王子!待って下さい」 「何だ」 外へ感情を漏らすことのない、無感情な声色。決して耳に響く心地が良いとはいえないそれに、エイリークは僅かに顎をひいた。呼び止められたヒーニアスは半分ほどこちらに身体を向けて、無表情のままその場で立ち止まる。 「……ヒーニアス王子、あの」 じっとこちらを見下ろすヒーニアスにエイリークは居心地が悪くなる。 正直言って、彼は苦手だ。直にフレリアの王となるであろう彼はその器に必要な威圧感というものを十二分に持っており。整いすぎる程に端正な貌が更にそれを無機質で近寄りがたいものへ変えてしまう。女性への扱いは手慣れていて基本的にフェミニストなのか、優しくエスコートも完璧だということも、今まで夜会などで見て知っているけれど。その度思うのだ。彼の瞳の奥はいつも同じだ。鋭くて、なんだか冷たくて。自分に対してそれが割増鋭くなっているような気がするのだと。そして、それが単なる気のせいではないということもエイリークは確信していた。 だから、今までは自分から必要以上に声をかけることなどしなかったのだけれど。 「腕、怪我をしています」 「……これくらいの傷、さしたる問題はない」 エイリークの視線を辿って、自分の腕を見下ろしながらヒーニアスはそう返した。それが理由で呼び止められたのか、と心の中で嘆息していそうな表情だ。事実、彼の腕の傷は、服の布が裂けて血が滲んではいるが軽傷の範疇だろう。けれど、彼はスナイパーだ。剣士と同じく、もしかしたらそれ以上に腕の怪我には敏感にならねばならないのかもしれない。何事にもあまり頓着しない兄みたいな人間だったら「こんなの舐めておけば治る」と言って笑って済ましそうだけれど。 そんなことを思いながら、エイリークはヒーニアスの腕を取った。 「些細に見えるような傷でも軽く見ては駄目です、貸して下さい」 この少女はこんな人間だったろうか、とヒーニアスは僅かに目を見開いた。彼にとっては些細な怪我、後で自分で消毒くらいはしようかという程度のそれに、少女は真剣な表情を浮かべて手当てを始めてしまった。なんだか、後は自分でするからもういい、とも言えない雰囲気で、ヒーニアスはただ黙ってそのまま彼女を見下ろしていた。 少女の第一印象はというと、評判通りそのまま、といったかんじだった。会う前から彼女のことは噂に聞いていた。ルネスの双子の妹姫は美しく聡明、身分問わず優しさを振り撒き、たくさんの者から慕われている存在だと。 その噂を初めて聞いた時、自分の感想と言えばどうだったろう。記憶の片隅から拾ってくれば、確か「……どこにでも転がっている石みたいなものだな」とかそういうものだったと思う。正直、噂など当てにならない。ましてや貴族間で囁かれるそれなど、実物に何重もの豪奢なベールを被せ大袈裟に飾ったものなのだ。だから話半分以下に適当に聞き流すのが丁度良いと思っていた。けれど実際にあった少女はどうだろう。噂通りの、否、それ以上の少女だった。そこに少しは感心はした覚えはあるけれど。 いつも控えめで、穏かな微笑を浮かべているような少女。自分が彼女の兄であるエフラムを無理やり勝負の場に引きずり出した時も、苦笑を交えてただ優しく見守っているだけだった。いや、そこには兄に対する絶対の信頼があっただろう。だから彼女は穏かに笑っていられたに違いない。それは少なからず自分にとって面白くない話だ。 だが、彼女に対する感想はその程度。兄のエフラムに比べると印象は薄かった。 「……これで大丈夫だと思いますが」 じっと、こちらを見下ろすヒーニアスに気づいてエイリークは首を竦めた。 「ご、ごめんなさい……余計なことをしてしまって」 よく考えれば、ここまでやることは無かったのではないか。彼はきっと自分のこともよく思ってないのだろうから、きっと余計なお世話だと思っているかもしれない。ヒーニアスは兄のエフラムを嫌っていた。というより敵視していた。どれだけひいき目に見ても、その妹である自分にいい思いなどもっていないのは考えればすぐわかることなのに。 「……いや、助かった。礼を言う」 ヒーニアスは手当てをされた己の腕を見ながら、ぽつりと言葉を落とした。ともすれば、聞き落としてしまいそうなほどの、呟き。同時に一瞬和らいだ彼の表情にエイリークが「……あ」と目を見開く。 「……どうした」 呆気に取られたようなエイリークを、ヒーニアスは不思議そうに見返した。 「あ、いえ。てっきり私も王子には嫌われていると思っていましたから、つい……っと」 しまった、と慌てて口を塞いだが、もう遅かった。双子の兄をあれだけ敵視しているから、その妹である自分も決して良い感情を持たれているとは思ってはいなかった。事実、今まで二人きりで喋ったことなどほぼ皆無に近い。避けられている訳ではないが、かと言って型にはまった丁寧な挨拶を交わすだけでそれ以上の関わりは一切無い、その程度だ。だから、こうして表面的な表情や言葉だけでないそれに触れた時、別に嫌われていたわけではなかったのだと思ったのだが。それをここで直接本人に伝えるなんて、自分は馬鹿だ。これではまるで彼を責めていることと同じではないか。 恐々と見上げるとヒーニアスは口に手を覆って、何やら罰の悪い表情をしていた。てっきり彼の気分を損ねてしまったかと思ったエイリークは吃驚した。もしかして、やはり図星だったのだろうか、と思いつつ、エイリークは自分の失言を詫びた。 「ヒーニアス王子、失礼なことを言ってしまって申し訳ありません。……その、別に王子を責めているわけではなくて」 つい、ほっとしてしまったのだ、と続けるのも何だか失礼な気がして、エイリークは口篭もった。だが、ヒーニアスは何か言葉を探すのに意識をとられているようで、珍しく逡巡したような仕草を見せている。 「……いや、私こそ済まない。君を嫌っているわけではないが……あの男の妹としてしか見たことが無かった。それは君に対してとても無礼な話だな」 「いえ……! あ、あの、謝らないで下さい!」 慌ててエイリークは顔の前で手を振る。正直、それは自分でも薄々感じていたことだが、こうもはっきりと告げられて、謝罪されるとは思わなかった。おそらく彼は今初めてそのことに気付いたのだろう。自分のことをエフラムの妹としてしか認識していなかったことに。確かに失礼な話ではあるがエイリークは不思議とそう感じることはなかった。逆に自然と頬の筋肉が緩んでしまって、くすり、と笑いが零れてしまう。 「……何故、笑う」 「あ、ごめんなさい、王子。……その、意外で」 そう言えば、彼はエフラムに対しても素直に感情を表しているような気がする。主に怒りとか対抗意識とかそういうのばかりだけれど。 彼の表面だけしか見ていなかったら、近寄りがたい人間だと感じてしまうかもしれない。けれど、彼は案外正直な人間なのだ。戦闘においても指揮官として知略溢れる采配をとり、そのいかにも命令し慣れた様子に生まれながらの王族と感じる反面、こんなにも正直なところがあるのだと少しそのギャップに驚いてしまった。 ヒーニアスは憮然とした様子でエイリークが笑いを堪える様子を見ていた。笑いを収めてエイリークが顔を上げると、二人の視線が正面から交わる。 「……そう言えば、王子とは初めてお会いしてから決して短くない時間が経っているにも関わらず、今初めてちゃんと向き合って会話をしたような感じがします」 「そうだな……。私もそう思う」 柔らかなエイリークの微笑につられるように、ヒーニアスも口の端を上げた。それを見てエイリークは笑顔を深める。そこに少し悪戯な色な見えるのは気のせいだろうか。 「……王子はいつも兄上とばかり、話をされますしね」 「……エイリーク、君はやはり怒っているのだろう?」 エフラムの話題を出され途端に眉を潜めたヒーニアスを見て、「ああ、やっぱり正直な人だな」とエイリークは微笑を湛えて言った。 「いいえ、怒ってなんていませんよ。でも、これからは私とも普通にお話して下さいね」 |