初 夜
ぎしり、と軋む音がやや緊張した静寂を破った。やたらと広い一室、天井まで届く窓から月明かりを浴びた一人の青年――エフラムは天蓋付きの寝台に浅く腰を下ろすと詰襟を緩めた。首をきつく束縛していたものが解けると、肺の隅々から吐き出されたような溜息が自然と漏れる。 (――さすがに、疲れた) 留め具と一緒に外套を外して、肩を揉み解す。今日一日だけで一年分の疲弊が凝り固まったかのようなそれに自分でも少し驚いた。 (大体、大仰すぎる上にまどろっこしすぎる……) 彼はルネス王国第一継承者として生を受けたものの昔からこういった格式ばった雰囲気を嫌い、武術――特に槍にばかり興味がいってしまっていた。同様に勉学の時間も嫌いだった。じっと座って小難しい理論で埋め尽くされた書物と睨み合いっこをしながら、堅苦しい教師に教鞭を振るわれるのは彼にとっては拷問にも近い時間だ。特に苦手な歴史の時間などよく抜け出したものだ。 ふと昔の思い出が脳裏に甦って、エフラムは目を伏せた。整理できたと思ってはいてもいまだに心の奥底は疼く。大陸を揺るがせた戦も終り、漸く一息ついた頃……なのだろう、今という時期は。一つ息を吐くと、彼はそこで回想を止めた。 国の元首となって幾許かの月日が流れても、やっぱり苦手なものは変わらない。だから、今日のこの行事もいつもならもっと簡略化して時間の節約に努めただろう。しかし、今回だけは違っていた。彼はしなかった、否、出来なかったと言った方がいいのかもしれない。 「……骨にいらない肉がつきすぎているんだ」 人生に一度きりであるだろう自分の結婚式に対して抱いた感想と言えば、そんなものだった。彼らしいといえば彼らしい。そんな愚痴とも云えるぼやきを訊けば、「まあ! なんてことを仰いますの!」と頬を膨らませて反論してくるだろう少女の姿は今、ここにはなかった。 ……いや、いるにはいるのだが。 エフラムは盛大に溜息を吐いて、窓から差し込む月光からまるで逃げるように部屋の隅に棒立ちになっている少女を見遣る。一足先にこの部屋に来ていたのだろう。だが、気配に敏感な彼でなかったらそこにいるのに気付かなかったかもしれない。それくらい彼女は自分を押し殺すように立っていた。固まっていたと言った方がこの状況に合ってるのかもしれないが。 「・・・・・・ラーチェル。そんなところに突っ立っていないで、いい加減こっちに来てくれないか」 そんな暗闇から、半ば戦闘態勢のまま睨らまれるのはちょっと……かなり居心地が悪い。そんな彼の思いが届く筈がなく、ラーチェルは途端に顔を真っ赤にさせて大きく口を開く。だが上手く言葉にならないらしく、まるで陸に打ち上げられた魚のように、何回か口をぱくぱくとさせただけだった。 「……仕方ない。ではこちらから行くか」 そう言ってエフラムが腰を上げた途端、心底慌てふためいた悲鳴が響いた。 「えっ、なっ、だ、駄目ですわ、やややらしいですわ! エフラム!!」 「……いや、やらしいって」 思わず天井を仰ぎたくなったが、寸前で堪えるエフラム。暗闇に慣れ、隅っこに隠れているラーチェルの表情も見えるようになった。彼女は昼間着ていた純白の婚礼衣装とよく似た寝着を着ていた。裾や縁に銀糸で細やかな刺繍が施され、幾重に重なったレースが彼女の動きに合わせて舞う。少女の身体のラインがよくわかるその繊細な純白の姿にエフラムは僅かに見入った。 「……全く。それじゃ結婚とはどういう意味か本当に理解しているのか疑問だな。今日の結婚式の内容も殆ど、というか全部ラーチェルが強引に決めてしまったんじゃないか。エイリークを巻き込んでまで。昨日まであんなに楽しみだとはしゃぎまくってたのに……」 ――何故、今彼女はこともあろうに光の魔道書なんかを抱えて俺と対峙しているんだ? エフラムは誰でもいいから問い詰めたくて仕方なかった。誰か、この状況を説明して欲しい。 「あああ当たり前ですわ! け、結婚は乙女にとっては人生に一度の大仕事! 最高の見せ場ですもの! それに加えてわたくしはロストン聖教国が誇る偉大なる王女ですわよ! 本来ならば大陸史に刻まれるような、大陸をあげての盛大かつ華やかに式典を催す必要が」 「わ、わかったわかった」 内心それは勘弁してくれ、と思いながらエフラムは彼女の言葉を遮った。 結婚式に対する彼女の尋常ならぬ執着に押され、エフラムは彼女に強引に押し切られる形で今日この日まできてしまったのだ。やれやれ、と思いつつも熱心に自分との結婚を思う彼女を見ると、エフラムも自然と口元が綻んでしまう。 微笑ましい。楽しい。見ていてこんなに飽きない存在というのは初めてだ。エフラムにとって少女の反応一つ一つが新鮮で、楽しくて、破天荒な彼女の言動に呆れることも多々あるがその呆れも最早、微笑ましいと思える範疇で。常に自分の予想を超える反応をする彼女を好ましく思ってはいるのは確かだ。しかし、現在のこの状況はやはり解せない。 「……とりあえず、その光の魔道書をしまってくれないか」 「な、そ、そんなこと駄目ですわ、お許しになりませんわ! これを離してしまったらわたくし、自分の身を守る術が無くなってしまうではありませんの!」 ――なんで身を守る必要があるんだ。 「……俺は君の敵じゃないぞ」 言いつつ、なんだかこれでは手負いの動物を必死であやしているように感じられてエフラムは悲しくなった。二人はさっきから妙な間合いをとって、対峙するように部屋の中央で正面から向かい合っている。とてもじゃないが、今日結婚式を挙げたばかりの恋人同士には見えない。 「……エ、エフラム」 「うん?」 いつもより弱々しく自分の名を呼ぶ少女を訝しげに見下ろした。耳朶まで真っ赤にさせたラーチェルは掌を握って拳を作りながら、エフラムの足元に視線を集中させる。相当緊張しているようだ。 「……わ、わたくしを驚かせるつもりはありませんのね? け、決して痛くしないと神に誓って下さいますわね?」 「ぶっ!」 「まあ何で吹き出してしまうんですの!? こう見えてもわたくし必死の思いでここに立っているんですのよ!」 「……すまない。本当に君は見ていて飽きないな、と思っただけだ」 「そんなこと、わたくしのこの美貌なら当然ですわね」 「……いや、そういう意味ではないんだが」 「まあ、わたくしが美しくないとでも言うんですの!?」 「ち、違うそうじゃない。頼むから、魔道書を構えるのはやめてくれないか」 「ご安心なさい。いくらわたくしとてこんな真夜中に城の中で光魔法ぶっ放すほど常識外れではありませんわ。これは角を後頭部にぶつけるために用意したんですの」 「……それも大分と嫌だぞ、俺は」 ―――かくして、めでたく夫婦となった二人が初めて迎える夜は、こんな下らない問答で多くの時間を費やしたそうだ。 |