大陸一の豪槍 








                5


 まだ陽が昇りきらない薄明の中、昨夜の夕日にも似た状況で闇の樹海を前にしたエフラムたちは、変わらずそこに布陣する紅の一団に対峙した。
 すでに命の無いグラド帝国軍は、昨夜の状態のまま一歩も動かずにそこに待機していたのか、音らしい音さえも無く存在していた。
 語ることもなく、ただ死を撒き散らす死者。
 国を愛する心も無く、ただ命ぜられるまま、武具を振るうだけの存在。
「哀れだな……」
 前回の戦いでは理性の下に隠した同情をあえて口にして、エフラムは前方に佇む帰る場所無き軍団を見た。次いで視線を移せば、一度の合戦を経た大地には倒れ伏した多くの兵士たちの姿がある。エフラムを信じ、戦い抜いた戦士たちの亡骸だ。
 同じ死であるというのに、その差はどういうことだろう。
 前者はまだ動くというのにひたすら哀れでおぞましく、後者はすでに動かないというのに悲しくも誇らしい。
 それはそばに控えていたカイルも感じたのか、彼は感傷を込めて呟いた。
「もし自分が戦場で倒れるとしたら、あそこにいる英霊たちのように、エフラム様のための礎となる死でありたいと思います」
「そうだな。死んだ後もこき使われるなんて、ゾッとしないぜ」
 フォルデも頷き、彼らは互いにさりげなく槍と槍の柄をコツンと触れ合わせた。性格は正反対の二人であったが、エフラムへの忠誠心だけは同じである。
 だが、戦の前の覚悟を決める二人を前に、エフラムは言う。
「残念だが、今回お前たちの出番は無い」
「は!?」
 予想外の言葉に驚く騎士たちを尻目に、エフラムは馬を進めて全軍へと振り返った。
 何事かと注目する皆に、若き指揮官はざわめきの中でも良く通る声で言った。
「これより、作戦の変更を伝える! 内容は変わらずに突撃戦。しかし、新しい作戦に参加するのは俺を含めて五名だ。ラーチェル、ミルラ、シレーネ、ルーテ、前へ!」
「兄上、何を……」
 ゼトによって全軍に伝えられていた作戦とは違うことを始めた兄に、エイリークは詰め寄ろうとして片手で制された。
 動揺はさざなみのように連合軍を揺るがしたが、名前を呼ばれた四人だけはあらかじめ知らされていたので冷静に進み出た。全員が女性であるが、そのそれぞれが己の得意とする分野で連合軍で一、ニを争う力を持っている面々である。
 ラーチェルは癒し。
 ミルラは破魔の力を秘めた竜人としての力。
 シレーネはフレリア天馬騎士団の長であり、その機動力は全軍一。
 ルーテも攻撃魔法を得意とする理魔法の第一人者だ。
「この五名で、一気に敵の本陣を落とす!」
 ざわめきが大きくなる中、エフラムは馬の鼻を返して自らを敵軍、闇の樹海へと向けた。肩で空を切るその仕草には迷い無く、堂々たる風格でもって彼は仲間たち一人一人に届くように続けた。
「皆も知っての通り、俺たちはこれより闇の樹海へと踏み込む。魔物たちの攻撃も、より一層激しくなるだろう。あるいは、俺たちが見たことも無い強大な敵が立ち塞がることもあるかもしれん。だが、恐れることはない」
 天へと突き上がる、白銀の槍。
 その切っ先に、幻のように紅蓮の炎が纏わりつくのを見た者たちは、おおと目を瞠った。
「これから起こることを目に焼き付けろ。俺たちには、魔を凌駕する力があることを。闇を切り裂く力があることを!」
 伝説は語る。
 炎槍ジークムントを携え魔王を封じし最強の槍使い。
「見届けろ──」
 果たして、その資格があるのかどうか。
「俺に、その資格があるのかどうかを!」
 そうして、彼は駆け出した。
 エフラムの愛馬が大地を蹴ると同時に動こうとしたカイルとフォルデの前に、ゼトの槍が現れて邪魔をした。信じられないという顔をする騎士たちに、ゼトは走り去るエフラムの背から目を離さずに言う。
「それが必要だと、あの方が決断されたのだ」
「そう……ですね。兄上らしいです」
 エイリークは、頷いた。
 遠ざかる兄の姿に、誇らしさと心配の入り混じった複雑な表情になりながら、妹姫は彼の無事を願うのだった。

                ※

「優秀な私が優秀な魔道書を預けられるのは至極当然の成り行きですが、少し意外にも思います。王族というのは、保守的で格式を大切にするものだと理解していました」
 一人のんびりと徒歩で敵軍に向かう魔道士の娘──ルーテは、起伏に乏しい淡々とした口調でそう呟いた。
 先頭を走るエフラムを追いかけるラーチェルの白馬もすでにかなり先行しており、ミルラを乗せたシレーネの天馬は遥か空の上だ。
「この辺りでしょうか」
 まだ敵軍からの矢も届かないような位置で、ルーテは足を止める。そうして、エフラムに託された一冊の魔道書を開いた。
 その瞬間、目もくらむような膨大な魔力の奔流が古びた魔道書の頁から立ち昇る。それに直撃されたルーテは、常の超然とした表情をわずかに歪めて歯を食いしばった。
「これは……」
 風。周囲を薙ぎ払うような勢いで吹き荒れるそれが、少女の二つに結った髪を跳ね上げ、弄ぶ。ともすれば手から吹き飛んでしまいそうな魔道書を必死に押さえ、ルーテはゆっくりとその場で両足を肩幅に広げて固定した。
「……どうやら、六十二段階の五十九番目くらいに扱いが難しいようですね。さすがはエフラム様。これは優秀な私にしか使いこなすことは出来ないでしょう」
 強がりではなく、心底そう思いながらルーテは意識を集中した。
 組み上げるのは、魔道式。理魔法の最高峰であり、ジャハナ王国の双聖器にして『風刃』の異名を持つ魔法。
 非凡な才能でその構成を読み取った天才魔道士は、自らの身体をも翻弄しようかというその力に志向性を与え、解き放った。
「エクス――カリバー!」
 極大の、空間すら引き裂く風の刃が、使用した少女を軽々と真後ろに吹き飛ばしながら世界に出現した。

                ※

 その時何が起きたのか、目で見て理解出来た者はいなかっただろう。結果を見て、後で想像してそれ以外に無いと結論する。そうすることでしか認識出来ないものが、エフラムの横を通り過ぎた。
「!?」
 それは不可視で、音すら無かった。だが、事前に何が使用されるか知っており、また卓越した戦士としての感覚があったが故に、それが自分のすぐそば、かすめかねない位置を通過したことがエフラムにはわかった。
 直後、彼の目の前に迫った紅の軍団が真っ二つに裂ける。それ――エクスカリバーの刃は一直線にグラド帝国軍を貫通し、一拍の間をもって『追いついた』衝撃波が、百に及ぼうかと言う死者を文字通り粉々に弾き飛ばしたのだ。
 そこまでいってから、轟音がエフラムの横を通り抜ける。音さえも凌駕する破壊力に、しかしエフラムとその愛馬は怯まずにより速度を上げた。
 彼は見た。エクスカリバーの直線状にありながら、魔法の光に守られてただ一騎立つ大陸最強の槍を。
「ラーチェルの予想通りか」
 自分がリオンであれば、死者を統括する核となっているベルクートには対魔法処理を施すとラーチェルは言った。核が簡単に破壊される死者の軍団では、足止めにはならないからだ。
「それでも、道は開いた……っ」
 大魔法の余韻である砂煙の舞う中、エフラムとラーチェルのニ騎は放たれた矢のようにその用意された道に飛び込んだ。ほんの馬数頭分の、すぐ横で槍と弓を構えた死者たちが
蠢く、綱渡りのような道だ。
 無謀と誰もが言うだろう。最初の混乱から立ち直ったグラド兵士たちがエフラムたちに気づき、槍を構えるまでのその短い時間。
 その短い時間に、シレーネの天馬は彼らの頭上にやって来ていた。
「……エフラム。できれば、あまり見ないで下さい」
 ほんの少しの悲しさを呟きに乗せ、天馬から自前の翼を広げたミルラが飛び降りる。
 少女の胸で竜石が光を灯したと思った瞬間、その可憐な姿は掻き消え、遠くエイリークたちの本隊からでもはっきりとわかる巨竜が大地に降臨した。
 この世に残った二人の竜人。その片割れの秘めた、黄金の竜王の姿。
 その竜王が無数の牙を生やした口を裂けるほどに広げて紅蓮の炎をちらつかせると同時、エフラムが愛馬の背に足をかけて膝立ちになる。
「シレーネ!」
 呼びかけが早かったか、ミルラが全てを焼き尽くす火炎を放ったのが早かったか。放射状に広がった炎が、ベルクートを守ろうとした騎兵たちを丸ごと飲み込んだ。炎は死者を消し炭に変えるだけでは足らず、大地を焦がし、その朱で刹那の間あらゆる者から視界を奪った。
「エフラム様は!?」
 主君を見失ったカイルは叫び、しかし気がついた。
 敵軍の上、シレーネの腕に掴まり炎を乗り越えたエフラムが、白銀の槍を携えてベルクートの前に着地するのを。
「さあ、続きを始めるぞ……柘榴石、ベルクート!」
 青年の鬨の声が、剣戟となって戦場に鳴り響く。
「では、こちらも行きますわよ!」
 ミルラと共に敵陣の中に残されたラーチェルは、作戦の首尾を確認して、それまで大事に抱えていた白い魔道書を紐解いた。
 そして。
「光あれ!」
 奇跡の力の行使は、そのひとことから始まった。

                ※

 エフラムとベルクートの戦いは、誰もが固唾を飲む幕開けとなった。連合軍の仲間たちは皆、エフラムが一度ベルクートに敗れていることを知っている。さらに、敵将の正体がかつて大陸一と謳われた男であれば、青年の勝ち目はほとんど無いと、誰もが思っていた。
 だが、打ち合って数合。それだけでエフラムは確信していた。
「違うな」
 まともに喰らえば一撃で背骨すら砕かれかねない横振りの一閃を柄で受け流し、エフラムは物言わぬ髑髏の顔に鋭い視線を向けた。眼球の無い眼窩には呪いの炎が浮かび、偽りの生命が爛々と燃え滾っていることを示している。
(しかし、それだけだ。そこに大陸最強の意志は無い……っ)
 受け流した槍でそのまま袈裟斬りにベルクートの馬の足を薙ぐ。それだけで体重を支えられなくなった軍馬が膝を着くと、ベルクートは迷いも無く馬を捨てて大地に降り立った。
 それで、互いに馬無しの五分だ。
「違うな」
 もう一度、エフラムは言った。
 違うのだ。この相手は。
「貴様は違う。大陸一の豪槍、ベルクートではない」
 エフラムには、ベルクートの槍筋が見えていた。一度戦ったことで、彼がどのような打ち込みを得意とするか、そしてどのような角度での攻撃に反応が鈍いか、わかっているのだ。
 対して、ベルクートはエフラムの技全てに初めての対応を見せる。
 それは、死者が前回の戦いから何も学んでいなかったことを如実に表していた。それが、エフラムには哀れだった。
「貴様は、一度俺と戦っているという記憶すら無いだろう。ただ前にいる相手を倒すだけ。心技体の技のみを残し、愚直にベルクートが身につけた技を繰り出すだけの貴様など――」
 ひと呼吸。
 炎槍ジークムントを頭上で一回転させ、エフラムは宣言した。
「俺の敵ではない!」
 そこからエフラムが加速した。左右の細かな突きでベルクートの腕を狙い、相手がそれを受ければ一転して大きく弧を描くように足元を狙う。
 凄まじい反射で飛び退る死者に、エフラムは伸び上がり様に逆袈裟の一撃を叩き込む。わざと握りを甘くして、手の中を滑らすようにして長さを稼いだその切っ先は、ベルクートの髑髏の顔面に直撃した。
「ぐ……おおっ」
 死者でも苦痛を感じるのか、ベルクートが大きく唸って槍を振り回した。無造作なようで的確に急所を狙ってくるそれを、ぎりぎり喉の皮一枚でかわしてエフラムは踏み込む。
「俺は貴様よりも強い男を三人知っているぞ! 真なる豪槍ベルクート、我が師デュッセル、そして」
 白銀の一閃が。
「この俺だ!」
 魔将の右腕を斬り飛ばした。

                ※

 エフラムの戦いの決着が着こうという頃、ミルラとシレーネの奮戦も虚しく、圧倒的大多数は彼女たちを飲み込んでエフラムに襲い掛かろうとしていた。いかに竜人の力が凄まじかろうと、一度に相手に出来る敵の数には限りがある。
 折りしも、弓兵がベルクートにとどめをさそうとするエフラムに狙いを定めた時だ。
 魔道書から溢れる光の波動に緑の髪を逆立てたラーチェルが、蒼天を振り仰いで翼を象った杖を掲げる。矢継ぎ早に唱えていた祈りの言葉が最後の一節を迎え、少女は魔を駆逐する究極の魔法を発動させた。
「偉大なるラトナ様、お力を! 神の愛よ、気高き光よ、闇にまつろう者たちに正義の鉄槌を!」
 それこそ双聖器。『光輝』と呼ばれる光の奇跡。
「行きますわよ! ――イーヴァルディ!」
 そうして、その奇跡の力は八百年の時を越えて再びこの世に出現した。
 まず最初に気がついたのは、やはり目の良いネイミーたち弓兵だった。彼女たちは空に星のようなものが瞬くのを見て、手近な者たちと首を傾げた。だが、すぐにそれが星ではないことを悟る。
 それは、純粋な光。幾つもの、無数の、数え切れない輝きが、明け方の空に瞬いていた。
 見上げたのは、連合軍の者たちだけではない。何も感じることがない死者たちまでが一時動きを止め、その虚ろな瞳を空へと向けていた。
 死者に本能があるなら、それなのだろう。
 無限にも等しい輝きたちは、集い、固まり、そして大きな輝きへと成長していく。その輝きは朝を霞ませ、真っ白な色で世界を染め上げていく。
 ――闇の色でさえも。
 始めは、剣や槍が地に落ちる音だった。
 次第に音は重なり、剣が、盾が、鎧が大地に落ちていく。積み重なっていく。その強くも優しい光に照らされた死者たちが、滅びることなく光の中に消えていく。
 其は命ある者の器であるが故に。
 元来光に属するものであるが故に。
 その力は、滅ぼさずに受け入れる。魂を縛り付ける呪いの鎖を断ち切り、次なる命の連鎖に迎え入れるために浄化する。
 ただ一騎、より強固な呪いで蝕まれたベルクートを除いて。
「ぐ……おお……! その……光を……!」
 紅の騎士は、光を浴びてのた打ち回る。鎧の透き間から骨が焼けた白い煙が立ち上り、髑髏の顔をボロボロと崩れさせながらラーチェルに視線を向ける。
「その……光を……止めろぉー!」
 最後の力。リオンの与えた偽りの命の最後の足掻きが、ベルクートをラーチェルに襲い掛からせた。
 しかし、それは悪足掻きに過ぎない。
 今や奇跡の二つ名の通りに光輝に包まれたラーチェルは、迫る死者に聖杖を向けて叫んだ。
「イーヴァルディ!」
 空のものにも負けない輝きが大地に咲き乱れ、ベルクートの紅の鎧が砕け散る。その下から現れた白骨の身体は、それでも一歩、二歩とラーチェルへと歩み寄るが、立ち塞がったエフラムに左手を動かす。
 槍を振るう形に。
「……貴様には、学ばせてもらった。もし『あなた』が間に合ったなら……次こそは、あなたの持つ称号を奪わせてもらう」
 せいぜい長生きして待っているさ。
 そう呟いて、エフラムは紅蓮の槍で最強を謳われた騎士を打ち砕いた。





                結


「見事!」
 全てを見届けたデュッセルがそう称賛する背後で、破裂するような歓声が上がった。それは、自らの指揮官が上げた勝ち名乗りに歓喜する、連合軍の将軍から一平卒まで、全員が上げた叫びだった。
「さすがはエフラム様っ」
「すげぇ、やっちまった!」
 冷静を売りにするカイルが吠え、フォルデが冷や汗を拭って破顔する。その後ろではゼトが静かに微笑み、エイリークが感無量の想いを噛み締めていた。
「兄上は……やっぱり兄上です」
 この世に絶対の信頼があるとすればその人のことなのだと、エイリークは知っている。生まれた時から知っている。誰よりも近しい兄のことを、誰彼構わず自慢したくなるのは、こんな時だ。
「ヒーニアス王子、兄上が!」
「……見ていた。見事だな」
 沸き立つ全軍でただ一人憮然としている者がいるとすれば、エフラムのことを敵対視するヒーニアスくらいである。彼は、飛び跳ねて喜ぶ妹のターナに苦々しい顔をしつつも、嬉しそうなエイリークの笑顔に一応の賛辞を送る。
「これで、大陸一の豪槍の称号はあいつのものというわけだ」
 まあ大陸一の射手の称号は以前から自分のものだがな、と嘯いて青年はふんと鼻を鳴らした。
 そして、歓声は時間を経つほどに大きく、まとまったものに変わっていく。
「ルネスの希望、勇王エフラム万歳!」
「光の聖王女、ラーチェル万歳!」
 自国の光を称える声に。
 新しい英雄を歓迎する声へと変わっていった。

                ※

「勇王エフラム万歳!」
「光の聖王女、ラーチェル万歳!」
 聖なる光の降り注ぐ爽やかな朝、自分たちを呼ぶ五百を越える兵士たちに手を振りながら、エフラムは傍らのラーチェルへと囁いた。
「上手くいったな」
「ええ」
 上機嫌に両手を使って歓声に応えていた少女は、満面の笑みで頷いた。
「前回の醜態を返上して、なおかつ闇の樹海に入る勇気を与える。わたくしたちのような素晴らしい主に恵まれていることを知らしめるにも、この戦いは必要不可欠でしたわ」
 ラーチェルがエフラムに提案し、実行したのはそういう作戦だった。誰かが一つでも失敗すれば命も危うい突撃戦だったが、
「だからこそやる価値がありますわ!」
 という主張にエフラムも二つ返事で同意した。大陸最大の魔境に挑む前に、ほんの少しの不安も兵士たちには残すわけにはいかなかった。
「ミルラとシレーネも、良くやってくれた。君たち無しでは、この作戦の成功はありえなかった」
「もったいないお言葉です」
 天馬を地に下ろしたシレーネも、この落ち着いた女性にしては珍しく興奮気味に頭を下
げた。ミルラも控えめに微笑んだが、幼い少女はどちらかというと、並んで兵士たちに応えるエフラムとラーチェルの距離の方が気になるらしく、チラチラと青年の顔とラーチェルの顔を交互に見ていた。
 そんなことには気がつかず、エフラムは目を凝らして次に感謝すべき相手を地面に探し、苦笑した。
「ルーテは……あそこか」
 ゆっくりと進軍してくる連合軍と、エフラムたちとのちょうど中間に、ルーテが大の字に寝転がっている。彼の耳が良ければ、
「この後頭部の鈍痛。これは経験的に『たんこぶ』が出来ていると思われます。早急に冷やして処理する必要があります」
 という呟きが聞こえたことだろう。
 とにかく、これ以上無い快勝であった。
 その功績の立役者の中でも、一騎打ちで敵将を討ち取ったエフラムを称える声は大きい。
「わたくしのおかげですわよ。感謝なさい」
「ああ。俺がベルクートに勝てたのは、君のおかげだ」
 胸を張ってコロコロ笑うラーチェルに、エフラムは意外にも真剣な顔で頷いた。それに、ラーチェルは笑い声をピタリと止めた。
「あら?」
「一度でも負けた相手には苦手意識が付きまとうものだ。そのままなら、俺も苦戦は免れなかっただろう。だが、何せ俺はすでに『勝っていた』からな」
 目を丸くする少女を、青年はジッと見つめる。小柄だが誰よりも存在感があり、自然と周りを従えてしまう強引さを持つ、生まれるべくして王女として生まれた少女。
 そんな相手に、彼は心からの礼を言うのだった。
「君が俺にベルクートに挑んで良い理由をくれた。危ない橋は渡らないとエイリークと約束したばかりだが、一度倒した相手なら問題無しだ」
「まあ! それは、もっと感謝してもらわないといけませんわね」
 最後のひとことを冗談めかしたエフラムに、ラーチェルはクスリと微笑んだ。それは華の咲くような笑みで、思わずエフラムがまじまじと見つめてしまったほどだ。
 しかし、そうやって見つめられると恥ずかしいのか、ラーチェルはすぐに唇を尖らせる。
「な、なんですの。そんなに見て。まさか、またいやらしいことを……」
「な……またその話か!?」
「ふんっ。な、なんだか理不尽ですわ。わたしだけ動揺しているのはおかしいですわッ」
 エフラムにはわからない理由で少女は頬を染め、そっぽを向いてしまう。
「憶えてなさいエフラム。わたくしだって、今にあなたを動揺させてみせますわ!」
「……わけがわからないんだが」
 今朝からどうにも不自然な少女の態度を訝しがりながらも、エフラムはあえてそれ以上言及することなく、近づいてきた本隊に向かって歩き出そうとした。
(機嫌は、後で取ればいいな。レナックに教わったあれも──)
 と、肩を揃えて歩を踏み出した二人の手が、わずかに触れ合った。
「ん?」
「っ!」
 瞬間、火箸に触れたかのような速度でラーチェルが自分の手を胸元に引き寄せた。ボッと火が出るほどに紅潮した顔に焦りの色を浮かべ、エフラムから一歩離れようとする。
「む……」
「え?」
 その時、様子を見ていた誰もが予想もしなかったことが起きた。エフラムが伸ばした腕でラーチェルの肩を掴み、あっという間に抱き寄せたのだ。
 青年は、凍りついた状況の中で少女の耳元に口を寄せ、
(確か、わけのわからない女に対しては……)
 ふっ、と艶かしい吐息を少女の耳に注ぎ込んだ。

 ──絶叫が、新しき大陸一の豪槍の腕の中から響き渡った。

                ※

 それは、全てが終わる前日の物語。
 若き英雄たちを称える声と仲間たちの笑いの声の中、青年と少女のたわいない会話が許された、決戦前の最後のひと時の物語。
 大陸暦八〇三年。
 勇王エフラムと、光の聖王女ラーチェル。
 後の歴史に名を残す二人の出会った、人ならぬ魔王により翻弄された激動の一年間の終局は、もう目の前に迫っていた。




                                    了










あの闇の樹海での激しい攻防をテンポよく、かつ濃厚な内容な上にエフラー、最高に燃えました萌えました…!
しかもしかも以前自サイトの絵日記で描いたエフラー漫画の、耳に息吹きかけシーンが…!(萌)うわぁうわぁ、もうたまりません。感激ですありがとうございます!
とりあえず、このあと、詳細を知ったラーチェルにレナックは成敗されるに一票(笑)。
エフラムとラーチェルの軍議のやりとりがとてつもなくツホでした、二人とも突撃型なので意気投合しちゃった日にゃ、周囲はもうへとへとでしょうね(笑)。

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