の 辞 典  







 わかっている。


 わかっているのだ。


 自分が最近おかしいことぐらい。誰に言われるまでもなく、彼女自身がそれを一番理解していた。
「ああ……一体、自分が何をしたいのかわかりませんわ……!」
 最近ではこんな意味不明の独り言も多くなっている。どちらかと言うと自分は独り言の多い人間だと自覚はあったが、いつもはもっとこう……自分の願望とかそういうのが多分に含まれた独り言が多かった筈だ。けれど最近では自分でも不明瞭な呟きが多い。意味不明な自分への問いかけだったり、恥かしさからくる意味のない叫びだったりとか。

「……いけません、これでは危ない人への仲間入りではありませんの……」

 さっきまで赤かった顔は今は青ざめている。そうだ、これも最近頻発している異常事態の一つだ。自分はこんなにすぐ顔が赤くなったりはしなかった。ロストン聖教国の王女として生まれた自分はどれほどの大勢の人間を前にしようとも、動揺すらしなかった。むしろ、人前の方が気分爽快、調子も絶好調になるのだ。大勢の前での演説も進んで立候補したいくらい目立ちたがりだし、人と話すことも凄く好きだ。それなのに、今は目立ちたくない思いが強い。今の自分は見られたくない気持ちが強い。
 これでは駄目だ。このままでは、かつての英雄のような偉人になれる日など夢で終わってしまう。

「なんとかしなくてはなりません……」

 でも自分ではどうしたらいいかわからない。ラーチェルは焦った。焦って足元が疎かになったせいか、テントを張った杭にけつまづいてみっともなく転倒しそうになった程だ。
 勿論、持ち前の反射神経で見事な前受身をとったけれど。それに思わず拍手を送ってしまった兵士の姿など彼女の眼中に入っていなかった。そのままずんずん、と前へと突き進む。ちなみに今現在、軍は野営の準備に追われていた。

「! そうですわ、誰かに相談してみれば……!」

 自分一人で解決することができない問題でも、誰かがいれば解決するかもしれない。我ながら名案だと思って、ラーチェルはでは誰にこのことを相談しようか、と頭を巡らした。
 一番初めに彼女の頭に浮かんだのは蒼髪の少女、エイリークだ。ルネス国の王女でこの旅を通じて二人は出会い、仲良くなった。思いやりがあって心優しい彼女ならば親身になって相談に応じてくれるだろうし、その上彼女は聡明だ。問題はすぐ解決できそうに思えた。
 けれど。

「だ、駄目ですわ……!」

 エイリークから連想してしまった一人の青年の姿を慌てて頭から打ち消すようにラーチェルは声を上げた。その声に驚いた騎士数名が彼女を振り返って、怪訝そうに見ていたが当の少女は当然そんなことに気付いてはいない。
(双子は以心伝心と言いますし……ああ、盲点ですわ!)
 このことを彼女の双子の兄であるエフラムにだけは何故か知られたくなかった。出来れば彼に知られず、いつも通りの自分に戻りたかったのだ。

「……では、誰にしましょうか……」

 ラーチェルはその場で突っ立ったまま、うう〜んと悩みこむ。あまりエフラムと近くない人間で、この疑問に答えられそうな人物。
 挙動不審な少女を避けるようにして兵士達は野営の準備を進めていた。そんな彼らを気にも留めないラーチェルの視界の端に一人の少女の姿が映る。
(あの方は……確か、ルーテという……)
 紫髪を首の位置で左右に分けて括った少女はルーテといい、自分よりずっと以前に魔道士の一人としてこの軍に参加しているらしい。そういえば、彼女は博識で様々な文献に精通していると聞いたことがある。誰だったか、彼女は書物のどの頁にどの情報が記されているのかまで正確に記憶しているのだ、と恐ろしげに語っていたのを思い出した。
 自分も書物を読むのは好きで、自分の持つ知識にも自信がある。けれどその知識はこの世界の伝承や歴史の類に限られていて、それ以外の分野については専門といえるほどの情報量は自分は持っていないのだった。
 彼女ならば、この問題も容易なものではないのか。そう思ってラーチェルは自然と軽い足取りで彼女を追った。ルーテはちょうど自分に宛がわられたテントの中に入るところであり、両腕に抱えられた籠の中には見たことも無い草が一杯詰まれ、その隙間から何かの生き物の尻尾が覗いていたが、ラーチェルはそんなことに驚くような少女ではなく、躊躇もせず声をかけた。
「もし、そこのあなた」
 だが、返事は返ってこない。
「……聞いてますの? ルーテ」
 意気揚揚と声をかけたのだが、返事どころか振り向く気配もない。小首を傾げてもう一回声をかける。すると、目の前の少女はゆっくりとこちらを振り返った。
「ああ、もしかしたら私のことかともちらりと頭の片隅では思いましたが今はっきりと自分の名前を呼ばれた時点で、理解しました。私を呼んだのはあなたですね」
 無表情のまま、淡々と語る姿は普通の感覚を持つ人間ならば少したじろいでしまうだろう。けれどラーチェルもまた普通の感覚を持たない人間であり、今の彼女は一つのことで頭が一杯だったので一欠けらも気にしないまま話を続けた。
「ええ、そうですわ。わたくしはあなたを探していましたの。ああ、その前にわたくしはロストン聖教国の王女である……」
「ロストン聖教国のラーチェル王女でしょう。勿論存じています。ロストンは大陸の北東端に位置し、現在マンセル教皇を頂点に坐した宗教国家、一神教であり、王家は勿論国民の信仰心も随一。勧善懲悪の意識が高い傾向があり、そのためか非常に治安は高く旅行に適しています。名所の一つに高峰ミーミルがあり、ある集計結果によると“一生に一度は見ないと後悔する場所トップ1”だということが、「これ一冊で完璧!大陸横断の書」の四章の四頁目に載っていました」
「よくご存知ですわね」
 長々とした文章を詰まることなく淡々と述べるルーテにラーチェルは感心した。まるで、歩く辞典のような少女だ。自分とそう年も変わらないのに老成した賢者のような風格もある。これならば、期待できそうだと自然と胸は逸った。
「私、優秀ですから」
「頼もしい返答ですわ、ルーテ。これでわたくしのこの胸のもやもやも晴れてすっきりするわけですわね」
「私の優秀さとあなたの胸のもやもやがどう関係するのかは、わかりませんが、一体何のご用でしょうか」
「ええ、そうです、それです。わたくしの疑問にあなたが答えることでわたくしの疑問が消えて、この胸にあるもやもやが無くなるというそういう寸法ですわ!」
 少し小首を傾げたルーテにラーチェルは胸を張ってそう答えた。そんなラーチェルを見てルーテは相槌を打つ。
「成る程。それでしたら私も納得できます。自分の中にある様々な疑問……たとえばあのムケンムケトカゲのあの上体部の下の角はあらゆる角度から見ても無意味で無駄であると結論付けてもいいのに、何故一向に退化しないのかなどという生物の神秘の謎が解明されたときのあの清涼感は、最早言葉で説明することはできませんから」
「……意味がよくわかりませんけれども、わかって下さったのなら結構ですわ」
「ふむ。たまにはある修道士を習って慈善行動の一環としてあなたの気分をすっきりさせるという役目を負うのもいいかもしれませんね。ではその疑問とやらを私にぶつけてみて下さい」
 言いながら、ルーテはすたすたとテントの中に入っていった。隅に抱えていた籠を置くと、その横に腰を下ろす。ラーチェルも彼女と向かい合いようにしてその場に腰を下ろすと、おもむろに口を開いた。
「ええ、実はわたくし、最近自分で自分がわからなくなってきているんですの、変な行動ばかりとってしまうんですわ……」
 先程の態度とは一転して、私悩んでいるんです、という空気を漂わしたラーチェルは深刻そうにそう呟いた。
「……それは、記憶障害……いえ、もしかすると記憶、思考、現状認識、理解、言語、判断、感情制御、社会行動等の障害が自然的に生じてしまう一種の病気であり、主に老人がかかるという……いわゆる痴呆では。確か「マギ・ヴァル家庭の医学辞典」の五百六十ニ頁にそれについての概要が載っていました」
「ち、違いますわ、失礼ですわね! ええと……そうではなくて、そのですわね……ある人物がいたとするでしょう? その人物の前でだけ、自分がわからなくなるという……」
 痴呆、という言葉にラーチェルは慌てて声を荒げたが、すぐにこほんと咳をついて、自分を落ち着けさせようとした。段々自分らしくなく、もごもごと口篭もってしまうのを自覚していたが、自分でもどうしようもなかった。
「……それは……もしかすると新種の病気かもしれませんね」
「……やはり、病気なのでして?」
 少し考えこんだようなルーテの様子にラーチェルは密かに緊張した。
「いえ。病気だと決め付けるには時期尚早だと思われます。病名を決定付けるにはより具体的な症状が必要だと、「治療における心得百二十箇条」の二十一条目に羅列されていました。他にはどんな症状が現れておりますか」
「……ええ、そうですわね……その人物の前にいくと心拍数が異常に上がるのですわ。どっきんどっきんとか可愛らしいものではなく、早鐘のようにどくどくどくどく!ってそんなかんじですの!」
「ふむ、動悸が激しくなる……心臓あたりに何か負荷が生じているのでしょうか」
「それに顔も熱くなって、耳朶まで真っ赤になってしまうんですの……」
「それに急な発熱……と。顔面だけというのはまた不可解ですね」
「おかしなことを口走ってしまって、頭が混乱してしまうのですわ。どうしていいかわからなくて走ってしまいますの」
「走れるということは、体力的には問題ないということですね。それより内面、特に心臓、脳という人体の中枢あたりに何か異常があるように思われます。バサークにかかってない状態でそのような行動をとってしまうのは、はっきり申し上げると」
「は、はっきり申し上げると……?」
「最早、病気と疑ってかかってよろしいのではないかと」
「やっぱり……!」
 がくり、と項垂れるようにラーチェルは息を吐いた。どれほど自分で自分がおかしいと思っていても、それを他人から改めて宣告されるのはやはり痛かった。

「ところでその人物というのが気になりますね。どうしてその人物の前でだけそうなってしまうのか……もしかするとその人物があなたになんらかの術を施しているのかもしれません」
「いいえ、それは以前に確かめましたが、彼はわたくしに何の魔法もかけていないようですわ。そもそも彼は魔法が一切使えませんもの」
「そうですか。その彼とは一体……?」
「そ! それは言えませんわ!!」
「……そうですか。別に無理に聞き出そうとは思ってません。……やはり、あなたは病気のようですね。現在、異常な発熱状態にあるようです、動悸息切れも激しいですよ、大丈夫ですか」
「え……あ、だ、大丈夫ですわ……!」
 上ずった声で大丈夫と答えつつも、少女の顔は耳朶まで真っ赤だ。そんな彼女をまじまじと観察した結果、病状は進行していると判断したルーテは助言を口にする。
「これはもう専門の方に看てもらうしかありませんね。幸いこの軍にはシスターなども多くいますから、一度診てもらってはどうでしょう。それが現時点での最良で最短な疑問解消方法だと私は判断しますが」
「……そうですわね。わたくしもそう思います。ありがとうございますわ、ルーテ。この礼は必ず後日に」
 素直に頷いてラーチェルは、目の前の少女に感謝の意を表した。やはり自分の目に狂いはない。自分の今後についても配慮してくれる彼女はやはり相談相手としては最高だと思った。また何か疑問が出来れば、彼女のところへ赴こうと決意したくらいだ。
「いいえ、これは慈善活動の一環として行ったことですから、礼など要りません」
「そうですの、ではこれでわたくしは失礼しますわ。あなたと話せて本当によかったですわ」
「いえ、私も興味深いものを見れました」
 そう言いながら、ルーテは緑髪の王女の背中を無表情のまま見送った。

 ますます事態をややこしくさせてしまったことなど、博識を誇るその少女は微塵にも思っていないのだろう。彼女の今の頭の中は、たまに行う慈善活動は新たな経験を得られる一歩だということをある修道士に話すことで一杯らしいそうだ。